芭蕉が旅した羽州街道
おくのほそ道文学館収蔵

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羽州街道について


元禄2年(1689年)5月27日(新暦7月13日)、松尾芭蕉が、尾花沢から山寺立石寺に向けて旅立った羽州街道は、奥州街道の桑折宿から左に分岐し、その後、七ヶ宿、上山、山形、楯岡、尾花沢、新庄、秋田などの宿駅を経、青森の油川に達する近世の脇往還で、東北地方の西部を貫く基幹道であった。

16世紀末から17世紀の初めにかけて、中世期からの往還道に各勢力域で開かれた新道を継いで羽州街道が造営され、道筋には人馬の継立などの宿駅や一里塚が築かれた。宿駅の数は、本陣を持たない間宿(あいのしゅく)を含めると58を数え、出羽国には、南の楢下から北の及内まで17の宿駅が設けられていた。
  

  
羽州街道は、多くの峠越え、川越えを控え、さらに冬場の積雪があって険しい往還道であったが、寛永12年(1635年)に参勤交代制が実施されると、米沢藩上杉氏を除くすべての出羽国大名と、秋田藩佐竹氏、弘前藩津軽氏などがこの街道を通行し、街道筋は、出羽三山を目指す白装束の行者や参詣人の通行などで賑わった。

また、羽州街道は東北地方の物流に極めて重要な役割を果たした。東北地方から上方に向けた米や紅花、青苧、煙草などの特産物は、主に西廻り海運を利用して酒田から運ばれ、また、帰り舟で様々な上方物資が酒田に持ち込まれた。これらの物資を、内陸の川港基地・大石田と結んだのが最上川舟運で、この大石田の河岸と東北の各地を結んだ往還道が、羽州街道とその間道だった。

○「青苧(あおそ)」は、イラクサ科の苧(からむし)の茎の皮からとった繊維で、むかしはこれで布を織った。

  
羽州街道界隈 [尾花沢宿と芭蕉のころの延沢銀山] -尾花沢市-

尾花沢村絵図

養泉寺門前

清風邸跡前

素英墓碑前

銀山温泉
曽良随行日記 5月27日の条
天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着


絵図で見る江戸期の尾花沢

尾花沢小学校に、文化文政期(1804〜1830)に書かれた掛軸「尾花沢村絵図」がある。当時の代官田口五郎左衛門が絵師原田円吉に描かせたものという。この村絵図を東端から眺めていくと、芭蕉が尾花沢入りした山刀伐峠越えの道が描かれ、この道を西に行くと延沢道と合流し、やがて南北に延びる羽州街道とT字を成して交わる。芭蕉が3泊した鈴木清風宅はこのT字路付近にあった。

尾花沢村絵図


ここから羽州街道を更に西へ行って鍵状に右折する道筋をたどると、正面に広大な代官所の構えが目に止まる。代官所に通じる道の途中から左に切れ西へ行くと、北側に芭蕉が7泊した弘誓山養泉寺がある。次に、T字路の南へ目を移すと、街道の西側に鈴木清風の菩提寺念通寺が見られ、その南に、羽州街道から西に分岐する道が描かれている。これが羽州街道と最上川舟運の基地・大石田とを結んだ「大石田道」である。

「尾花沢村絵図」は、芭蕉がこの地に足を踏み入れてから130年ほどの歳月を経て描かれたものだが、昔の尺度で判断すれば、この年数は、町割まで変えてしまうほどのものではなく、また、元禄期からこの年代までに、尾花沢宿の景色を変えてしまうような政争は起きていない。

こうしたことを素地にしてこの村絵図を眺めると、芭蕉と同次元の空間に身を置いた感覚で、様々なシーンが見えてくる。それは、飛行機から下界を見下ろしたとき人の姿は見えなくても、同じ時間に生きる人々の様子を想像できるようなものであって、養泉寺の境内を見れば大変くつろいでいる芭蕉の姿が見えてくるし、汗を拭きながら街道を歩く芭蕉の姿なども彷彿としてくるのである。

村絵図はまた、我々に当時の生活様式も伝えている。羽州街道に目を遣ると、道の中央に1筋の線が引かれているが、これは、街道の真ん中を水路が通っていることを示しており、川水がどこから引かれ、どこへ流れ出るかまで克明に描かれている。この水路は、米を研いだり、野菜を洗ったりといった日常生活のためのものと見ていいのだろう。染物が盛んな町では、道の真ん中に築かれた水路が、染めた布や糸をさらすのに使われていたケースもある。

芭蕉のころの延沢銀山

芭蕉は、尾花沢滞在中に2つの歌仙興行に同座し、その内、1度目に巻かれたのが「すゞしさを我がやどにしてねまる也」を発句とする「すゞしさを」歌仙である。この中に、清風の「たまさかに五殻のまじる秋の露」に付けた芭蕉の「かがりに明ける金山(かなやま)の神」の句がある。

この下の句について、銀山に鎮座する山の神神社を詠んだものとする捉え方があり、加えて、「かがりに明ける」と具体的なところから、芭蕉が銀山に立ち寄ったと考える向きもあるようだ。それはさておき、当時の銀山の様子はどうだったのだろうか。

伝承によれば、延沢銀山は、康正2年(1456年)に、加賀国金沢の儀賀市郎左衛門が、湯殿山参りの道中、笠頭山の岩場から銀鉱石を発見したのに始まる。その後、最上義光の家臣、野辺沢氏が銀山の開発を行って領有したが、元和8年(1622年)、最上氏が改易したことで山形藩鳥居氏領となり、2人の奉行を置いて銀山を支配した。

そうした中、寛永8年(1631年)ごろになって銀鉱脈が次々と見つかり、銀山はにわかに活気づいた。これにともなって近隣、遠国からの出稼ぎ者が急増し、一説には人口約30万人、戸数9万8千軒にのぼったと伝えられる。こうして、銀山は、寛永11年(1634年)幕府直轄の御公儀山となった。

しかし、その翌年、突如として銀山が閉山され、閉山は6年後の寛永18年(1641)まで続いた。この処置は、出稼ぎ者の離農によって生じた農産物不足を対策するものだったらしい。銀山は、正保3年(1646年)ごろまで繁栄を維持したが、その後、堀場が次第に深くなって衰退の翳りを見せ、数年後には、出銀が以前の半分にも満たない状況となった。

その後、隆盛を取り戻すべく鉱脈探しに力が入れられたが、出水や湧き水などに難渋し、普請作業の挫折を度重ねていた。芭蕉が尾花沢を訪れたのは、ちょうどこの頃である。延沢銀山は、以降も普請が続けられたが成功せず、実質的には、寛文11年(1671年)頃を最後に、鉱山としての歴史を閉じていた。

  
羽州街道界隈 [土生田宿と本飯田宿] -村山市-
曽良随行日記 5月27日の条
天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着


土生田宿

清風宅を馬で旅立った芭蕉一行は、朧気(おぼろげ)村を経、今宿、五十沢間を南下し土生田宿に差し掛かった。土生田の北詰から1kmばかり南へ行ったところに、羽州街道から北西方向に分岐する脇道がある。これは、羽州街道と大石田河岸とを結んだ往還道で、慶長(1596〜1615)の頃、山形城主最上義光が「今宿村東山ノ岩石ヲキラセ、大石田村エ通路セシム」(願正御坊縁起)ために切り開いたものである。芭蕉は、山寺からの帰り道、この往還道から大石田の高野一栄宅を目指している。

本飯田宿

奥羽山脈の山裾に延びる街道を更に南下すると坂道となる。この坂道に上りかけた辺りが、土生田と本飯田の境目である。本飯田宿は、土生田宿と同じ、楯岡宿と尾花沢宿の間宿で、常備人馬の数は15人、15匹だった。

土生田と本飯田の境目から300mほど南に行くと、街道の東側に稲荷神社があり、その前に、羽州街道が造営される前に通っていた旧道の道筋が見られる。旧道は、土生田と本飯田にかけて、羽州街道から東側にやや離れる形で平行に走っていた。

  
羽州街道界隈 [楯岡宿と楯岡の俳人] -村山市-

金谷・尾上の松

林崎・居合神社

楯岡・北町

楯岡・二日町

楯岡・十日町
曽良随行日記 5月27日の条
天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着


街道筋の「尾上の松」

本飯田との境目にあたる金谷地区の北詰に、約600年の樹齢を誇る名松「尾上の松」がある。尾上の松は、もとは雌雄二株あって「相生の松」として旅人の足を止めたが、大正12年(1923年)に雄株が雪で折れ、同年植え継がれた。芭蕉の頃、既に300年ほどの齢を数えていた尾上の松は、老いてなお村山市のシンボルツリーとして元気に育っている。

○芭蕉が旅をしたかつての羽州街道は、尾上の松付近で約1.8kmに渡り現国道13号線と重複し姿を消している。

楯岡宿の本陣

出羽国には、本陣を持つ羽州街道の宿駅が10あり、芭蕉が山寺の旅で通過した尾花沢・天童間では、尾花沢宿と楯岡宿の2つだった。本陣は、大名が参勤交代を行う際の宿泊施設で、楯岡宿においては奥州大崎氏の家臣を祖とする笠原家が代々本陣をつとめ、その屋敷は、十日町の現村山郵便局の敷地に構えていた。笠原家が人馬の継立などを行う問屋場(といやば)も兼ねていたので、「清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄」送られた芭蕉は、本陣前で下馬したものと見られる。

居合神社と楯岡の宗匠壷中

尾上の松から1.5km余り南へ行った林崎地区に、居合道の始祖、林崎甚助重信を祭る居合神社がある。その昔、重信の「神夢想林崎流」を信望する武士が諸国から集まってこの神前で居合の奉納をし、また羽州街道を通行する武士は必ず参拝したと伝えられる。

この居合神社の境内に、林崎の俳人坂部壷中が詠んだ「御鏡や笑へハ笑ふ花の影」の句碑がある。これは、延享5年(1748年)に、諸国の俳人から俳句を募って板行した壷中編「奉納 華の林」が、居合神社に奉納された縁による。

壷中は、村山地方を代表する江戸期の俳人で、初め、蕉門十哲の1人に数えられる服部嵐雪の流れを汲む海谷一中の門に入るが、のち、同じ蕉門十哲の1人、各務支考を祖とする美濃派の俳人林風草(鶴岡)の門下となった。

宝暦元年(1751年)、壷中は俳諧仲間とともに、山寺立石寺に芭蕉が書いた短冊を埋めて碑を建て「蝉塚」とした。その碑表に「芭蕉翁」の三文字、側面に「静さや岩にしミ入蝉の声」の句が刻まれている。

○「静」の文字使用については、蝉塚の石碑に刻する句が唯一のもので他には見られない。

山寺の芭蕉句碑に揮毫した楯岡の俳人一具

山寺根本中堂の正面左側の石垣の上に、嘉永6年(1853年)に建立された松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句碑があり、この句を揮毫したのが楯岡の俳人一具庵一具である。

一具は幼少の頃、楯岡の本覚寺に入り、後、岩城(福島)の専称寺で修行。この間、当時奥州俳諧の中心にいた松窓乙二の門に入り俳諧を学んだ。文政元年(1818年)、俳諧修行の旅に出、この間に福島の大円寺の住職となるが、後に、江戸に住し俳諧に専念した。

著書に「俳諧故人五百題」(文政12年刊)、句集「西とうぢ」などがある。一具は、嘉永期に板行された「正風俳人鑑」で最高位の大関に番付されている。没年は、「閑さや」句を揮毫したその年の、嘉永6年である。

  
羽州街道界隈 [六田宿] -東根市-

白水川

六田

蟹沢

神町

神町
曽良随行日記 5月27日の条
天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着


六田宿

楯岡から徒歩の旅となった芭蕉は、一里の道のりを歩き六田宿に差し掛かった。曽良の随行日記に「一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。」(当日の条)、「六田ニテ、又内藏ニ逢。立寄ば持賞ス。」(翌日の条)とあり、芭蕉一行はこの六田宿で、「内藏」なる人物に2度逢っている。内藏は、自宅に立ち寄った芭蕉を持て成したことから、尾花沢逗留中に芭蕉と面識を得、宗匠芭蕉であることを承知していた人物ということになるだろうが、詳細は不明である。

六田の麩(ふ)作り

東根は、昔から小麦の生産地で、奥羽山脈と白水川水系等が織り成す複合扇状地の端から良質の水が湧き出ることから、これを利用した麩作りが江戸時代から行われ、特に「佐竹井戸」を抱えた六田はその産地としてつとに知られている。現在も、白水川橋から900mほど先までの道沿いに6軒、裏通りに2軒の製麩所があり、この区間を「六田麩街道」と呼んで伝統の地場産品をアピールしている。

  
羽州街道界隈 [天童宿] -天童市-

一日町

山寺街道入口

北目の道標

将棋の館

将棋資料館
曽良随行日記 5月27日の条
天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。


天童宿から山寺街道へ

芭蕉一行は、尾花沢から楯岡、六田など5つの宿を経、山寺街道の起点となる天童一日町に到着した。天童宿は、山形宿と楯岡宿の間宿で、南から伝馬町の一日町、五日町、三日町、続いて田町の四町が羽州街道沿いに並び、裏手に小路町と中町があった。

芭蕉は、一日町の北詰付近で羽州街道と別れ、山寺街道に入った。現在、立石寺までの道筋は一部が失われ、現山寺街道(天童山寺公園線)と重複して姿を消しているところもあるが、家並や果樹園などの間を縫いながらこの折の芭蕉の足跡をたどってみることができる。

将棋の駒作り

生産量日本一を誇る天童の駒作りの歴史は古く、江戸時代後期まで遡る。織田信長の二男信雄を祖とする織田氏が、高畠から石高わずか2万石で天童に入部したのが天保2年(1831年)。かの大飢饉が始まる2年前であった。少ない石高に加え、8年間にわたる大飢饉は出羽国にも大きな打撃をもたらし、藩財政は窮乏を極めた。

こうした中、暮らしに難渋する藩士を助けたのが将棋の駒作りなどの内職だった。中でも、駒作りの内職については、将軍が御城将棋を嗜み、幕府に将棋所が設置されるなどの文化的背景に加え、将棋の戦法が兵法に通じるとする考えから藩士に広く受け入れられ、現在の、生産量を日本一とする基盤が築き上げられた。


[参照] 資料写真と解説 羽州街道界隈1   2

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