芭蕉について

曽良日記中の「道々俳有」は何を意味するか

曽良随行日記の5月29日の条に「道々俳有」の4字が記されている。これは何を意味するのだろうか。

夜ニ入小雨ス。発・一巡終テ、翁両人誘テ黒瀧ヘ被参詣。予所労故止。未尅被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入帰。 (曽良随行日記)

大石田到着の5月28日、芭蕉は、2日連続の旅で疲労困憊し、随行日記に「其夜、労ニ依テ無俳、休ス」とある通り、歓迎の宴で俳諧を行うこともなく早々に休んだようである。

そして翌29日に、高野一栄宅で連句の会が行われ、連衆がそれぞれ1句を詠み「さみだれを」一巡四句が結ばれた。ここで、初めに掲げた「道々俳有」の意味を捉え易くするために、何故、36句を詠んで歌仙として完了されなかったのか考えておきたい。
さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川 芭蕉
岸にほたるを繋ぐ舟杭       一栄
爪ばたけいざよふ空に影待ちて   曽良
里をむかひに桑のほそミち     川水

(「芭蕉真蹟歌仙」より)


初めから歌仙を巻く予定で連句の会が開かれ、それが4句で頓挫したとすれば、連衆の中のだれかに突然急用ができたか、急に体調を損ねた人物が出たかの何れかになる。

芭蕉と一栄と川水の三名は、この後、2kmほど離れた向川寺へ出掛けているので、前者は無く、後者にしても、これは一大事なのであるから曽良の日記に記されない筈がない。曽良は疲労のため同行しなかったと日記にあるが、曽良の体調が原因したとも思われない。

このように考えると、当日の歌仙は、初めから各自が1句ずつ計4句を詠んで終了する段取りであったと推測される。

では、なぜ、翌日に32句が追加されて歌仙一巻が成立する運びになったのか。この鍵を握るのが「道々俳有」の4字ではないかと考えられる。

「おくのほそ道」の本文にあるように、一栄、川水は、自分達の俳諧がこれまでの古調でよいのか、芭蕉の俳諧を学べるものなら是非、といった複雑な心境で芭蕉を迎えたのであるから、何の解決も無いままに歌仙を巻いても、心が満たされる道理が無いのである。

その解決の糸口となったのが、一巡四句の後の、向川寺参詣ではなかったか。おそらく、その折に、芭蕉が本文にあるような「みちしるべ」となって蕉風俳諧を伝授したのに相違ない。そのことが曽良に伝えられ、日記に「道々俳有」の4字が記されたというのだろう。

その成果発表会が、歌仙が満尾した翌日の連句の会であり、その出来に大いに満足した芭蕉が、自ら筆を執って「さみだれを」歌仙を清書して一栄に手渡した、というのが、この二日間の経緯と考えるのである。
  


「おくのほそ道」と大石田/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と大石田新庄
元禄2年(1689年)5月28日(新暦7月14日)〜6月3日(新暦7月19日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 廿八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内藏ニ逢、立寄ば持賞ス。未ノ中尅、大石田一英宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田ヨリ一リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳、休ス。
 
 
 
一 廿九日 夜ニ入小雨ス。発・一巡終テ、翁両人誘テ黒瀧ヘ被参詣。予所労故止。未尅被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入帰。
 
 
 
〇一 晦日 朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺ヘ被遊、帰、物ども被書。
 
 
 
六月朔 大石田を立。辰刻、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬弐匹、舟形迄送ル。ニリ。一リ半、舟形。大石田ヨリ出手形ヲ取、ナキ沢ニ納通ル。新庄ヨリ出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共に入ニハ不構。ニリ八丁、新庄。風流ニ宿ス。
  
 
 
 二日 昼過ヨリ九郎兵衛ヘ被招。彼是、歌仙一巻有。盛信、息、塘夕(澁谷仁兵衛、柳風共)、孤松(加藤四良兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善衛門)、風流(渋谷甚兵ヘ)。
 
 
三日 天気吉。新庄ヲ立。一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。
 
一リ半、古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。
 
 
 
平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。此間ニ仙人堂白糸ノタキ、右ノ方二有。状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。一リ半、厂川。ニリ半、羽黒手向。荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院ヘ、大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子ヘ渡。本坊ヘ持参、再帰テ、南谷ヘ同道。祓川ノ辺ヨリクラク成。本坊ノ院居所也。
一 廿八日 馬借りて天童に趣く。六田にて、又内藏に逢う。立寄ってもてなしを受ける。午後2時半頃、大石田の一英(一栄)宅に着く。両日共に雨降りそうで降らず。上飯田(本飯田。現村山市内)より一里半。川水と出合う。其の夜、疲労により俳諧無く、休息す。
 
一 廿九日 夜に入り小雨降る。発句・一巡(各自一句ずつ詠み)終えて、翁(芭蕉)両人を誘い黒瀧(黒滝山向川寺)ヘ参詣。予(曽良)は疲労の為辞退。午後2時頃にご帰宅。道々、俳諧有り。夕飯は川水がもてなす。夜に入り一栄宅に帰る。
 
〇一 晦日 朝方曇り、午前8時頃、晴れ。この日「さみだれを」歌仙成る。翁(芭蕉)其の辺を散策し、帰宅後に各句を清書し仕上げられる。
 
六月朔 大石田を立つ。午前8時頃、一栄・川水、弥陀堂迄送る。馬弐匹で、舟形迄送る。その間ニ里。一里半、舟形。大石田より出手形を取り、ナキ沢(名木沢。大石田内)に納めて通る。新庄より出る時は新庄にて取り、舟形にて納めて通る。両関所共に入るに差しつかえ無し。(舟形・新庄間)ニ里八丁、新庄。風流宅に宿す。
 
 二日 昼過より九郎兵衛(盛信。風流の本家)に招かれる。彼是(かれこれ)、歌仙一巻有り。盛信の息子塘夕(澁谷仁兵衛、柳風とも称する)、孤松(加藤四良兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善衛門)、風流(渋谷甚兵ヘ)。
 
三日 天気晴れ。新庄を立つ。一里半、元合海(本合海)。次良兵へ方へ甚兵へ方からの添状を渡す。大石田平右衛門方からの添状も渡す。船、工面して乗せてもらう。
 
一里半、古口へ舟を着ける。合海(大蔵村。本合海の上流部)から乗船した禅僧ニ人と同船、清川にて別れる。(芭蕉庵で死去した)毒海長老に因みの有る僧。是又、平七方へ新庄甚兵ヘからの添状を渡す。関所、出手形、新庄より持参。平七の子、呼四良、番所へ持って行く。舟を継ぎ、三里半、清川に至る。酒井左衛門殿領也。
 
平七からの添状が誰宛か忘れる。此間(古口・清川間)に仙人堂・白糸の滝、右の方に有り。清川関所に渡す添状が無く、役人は船から上げず(本件は、この先、厂川<狩川>、手向と実際に旅が続けられた経緯より、結局、清川で下船が許されたと見るのが順当)。
一里半、厂川(狩川)。ニ里半、羽黒手向。荒町。午後4時頃、近藤左吉の宅に着く。本坊より帰って会う。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門からの案内状。露丸子へ渡す。本坊へ持参、再び帰って、南谷へ同道。祓川の辺りより暗く成る。本坊の院居所。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第23集 芭蕉と大石田
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