新庄資料写真と解説(1)

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鳥越の一里塚
鳥越の一里塚。

芭蕉一行は舟形宿で馬を大石田に戻し、新庄城下までの残り「二リ八丁」(曽良随行日記)を徒歩で旅を続けた。写真は、城下への南入口付近に位置した鳥越地区で、当地に、北側のみながら一里塚が現存している。
 

鳥越の一里塚。

一里塚の前を走るのが羽州街道で、この先に、「柳の清水」の旧跡がある。芭蕉が訪ねた当時の新庄藩は、二代藩主戸沢正誠(まさのぶ)の代で、この頃までに初代藩主政盛から継承した藩政の諸策が整い、城下は財政、文化両面において全盛の時代を迎えていた。

鳥越の一里塚
街道と柳の清水の標柱

街道と柳の清水の標柱。

写真は、上の一里塚から北へ延びる羽州街道。「柳の清水及び句碑」と書かれた標柱から右折し、4、50m行ったところに同様の標柱があり、そこを左折したところに「柳の清水」と芭蕉句碑がある。

 

柳の清水全景と芭蕉句碑。

芭蕉は、新庄の風流亭で開かれた連句の会で「水の奥氷室尋る柳哉」の句を詠んでいる。これは、芭蕉が、道中、この清水で飲んだ冷水を念頭に置いたものと見られる。新庄到着の旧暦6月1日は、昔、氷室に貯蔵した氷を食し、暑気払いや夏の厄除けをした「氷室の節句(節会)」に当っている。

柳の清水全景と芭蕉句碑
柳の清水 柳の清水。

「柳の清水」の旧跡は、昭和63年(1988年)の発掘により再整備されたもので、これに伴い近隣の金沢八幡神社(下/右)境内にあった芭蕉の句碑が当所に移された。

 

 

渋谷風流宅跡。

芭蕉が旅装を解いた豪商渋谷風流(甚兵衛)の家は、渋谷家文書「家系」や宝暦7年(1757年)刊「北本町 南本町 両町家並面附牒」から「南本町西側、大手口角から数えて六軒目」、すなわち新庄市役所からほど近い南本町の金物店の敷地付近にあったと考えられており、金物店の店先に「芭蕉遺跡風流亭跡」の石柱が建てられている。この辺りは城下随一の繁華街だったという。ただし、風流宅については(新庄市)上金沢町にあったとする説もある。

新庄到着の翌日、「御尋に」歌仙が巻かれた風流の兄渋谷盛信宅は、風流宅の斜向(はすむか)い、およそ山形銀行新庄支店の敷地にあった。盛信は大規模な問屋業を営む商人で、城下一の豪商だったと伝えられる。

風流宅跡から撮影した山形銀行新庄支店

渋谷風流宅跡


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第23集 芭蕉と大石田
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