山寺から最上川河港清川までの旅路
おくのほそ道文学館収蔵

大石田までの旅路 「古き俳諧の種」をこぼした大淀三千風 大石田俳壇の道標となった芭蕉

黒滝山向川寺について 歌仙「さみだれを」の巻 猿羽根峠までの旅路 峠越えの羽州街道


猿羽根山地蔵尊 新庄城下の渋谷風流宅に到着


到着当日に詠まれたか「水の奥」三つ物 盛信亭で巻かれた歌仙と三つ物 本合海へ


芭蕉、最上川を下る 仙人堂 白糸の滝 清川上陸

山寺〜大石田、大石田滞在一日目
元禄2年(1689年)5月28日(新暦7月14日)

本飯田・村山市

土生田・村山市

追分・大石田へ

今宿・大石田町

大橋・大石田町
山寺立石寺の宿坊に一宿した芭蕉一行は、前日歩いた道を土生田宿の先の追分地点まで戻って左折し、引き続き、大石田の高野一栄宅に向けて杖を曳いた。

大石田へ続く往還道は、今宿の山(現在、虹ヶ丘。薬師山、今宿山とも)に到達する間に徐々に最上川に接近し、やがて、北西方向に向って並走する。
一 廿八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内藏ニ逢、立寄ば持賞ス。未ノ中尅、大石田一英(一栄)宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田(本飯田)ヨリ一リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳、休ス。
(曽良随行日記)

  【地図 山寺街道 出羽路 】   参照    旧山寺街道を行く  芭蕉が旅した羽州街道

  
大石田までの旅路

芭蕉は、大石田への途次、西行ゆかりの「たきの山と申す山寺」(山家集)の地を訪ねようとしたのか、曽良随行日記の5月27日の条に「山形ヘ趣カン(ト)シテ止ム」と記してある。「たきの山」については論争が繰り返されたが、現在は新資料「小立文書」の出現により、山形市東南部に聳える竜山(瀧山。1352m)の中腹、三百坊の地であることが確実視されている。

又のとしの三月に出羽国にこえて、たきの山と申す山寺に侍りけるに、さくらのつねよりもうすくれなゐ(薄紅)の色こき花にてなみたてりけるを、寺の人々も見興じければ
たぐひなきおもひいではのさくらかなうすくれなゐの花のにほひは (山家集)

中古、西行法師東国行脚之節、此瀧山之山寺江御出、桜を御覧被成候由、西行歌集と申書物
御座候と承申候。依之西行桜と申古木、瀧山于今御座候。又西行坂と申所も御座候。
(元禄元年8月の「小立文書」。出典は後藤利男著「みちのくの西行」)

結局、前日と同じ道を行くことにした芭蕉一行は、馬に揺られて天童の宿駅まで旅し、天童からは徒歩で六田、楯岡、本飯田、土生田と旅を続けた。羽州街道は、土生田の北詰付近で北西方向に分岐する。この道こそ、藩政時代に村山地方と最上川河岸を結んだ往還道(現県道大石田土生田線)で、かつては、この追分地点に、三角柱の形をした六尺程の道標が建っていた。道標は戦後の国道改修時に取り壊されたが、平成11年(1999年)に土中から中間部分が発見され、「おおいしだ 道」の刻印が確認された。
羽州街道と山寺街道の合流地点(天童)    ○羽州街道と大石田への道との合流地点(土生田)


芭蕉一行は、大石田に入り今宿の山を過ぎ行くころ、南西方向から流れ込む最上川を目の当りにした。出羽国入りした5月15日以降の天候が下の通りであることから、最上川は、芭蕉が徒渡りした何本もの中小河川の濁流をまる飲みし、満々たる川姿を呈していたことだろう。芭蕉が大石田で「五月雨を集めて」と詠んだのは、こうした印象も含めてのことと思われる。

月日(旧暦) 滞在地 天候 随行日記に見る天候関連の記述
5月15日 境田 小雨 小雨ス。
5月16日 堺田 大雨 大雨。
5月17日 堺田、尾花沢 快晴 快晴。正ゴンノ前ニ大夕立。
5月18日 尾花沢 小雨 小雨ス。
5月19日 尾花沢 晴れ、のち小雨 朝晴ル。(中略)夕方小雨ス。
5月20日 尾花沢 小雨 小雨。
5月21日 尾花沢 不明 記述なし。
5月22日 尾花沢 不明 記述なし。
5月23日 尾花沢 不明 記述なし。
5月24日 尾花沢 不明 十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ。
5月25日 尾花沢 時々小雨 折々小雨ス。
5月26日 尾花沢 小雨 此日モ小雨ス。
5月27日 尾花沢、山寺 (天気よし) 天気能。
5月28日 山寺、大石田 不明 両日共ニ危シテ雨不降。
芭蕉が徒渡りした最上川の主な支流(「芭蕉が旅した羽州街道」より)  

芭蕉と曽良は、道中、尾花沢で面識を得た高桑川水に出合った。随行日記の「川水出合」について、川水が一行を出迎えたと解される場合があるが、上記の通り、芭蕉は山形行きも意図していたのであるから、川水が予め一行の旅次第を掌握することは難しく、道中もしくは村内でたまたま出合ったと見るのが妥当だろう。

高野一栄宅に到着し旅支度を解いたのは、未ノ中尅、午後2時半ごろだった。高野一栄は、河岸近くで船問屋を営む一方、大石田俳壇の中核に位置した人物で、芭蕉とは尾花沢逗留中に面識を得ていた。当時、一栄は54歳、川水は芭蕉と同年の46歳だった。芭蕉は、2日連続の旅で疲労困憊し、大石田滞在の1日目は、早々に就寝の床に着いたようである。
  
   
   
大石田滞在二日目
元禄2年(1689年)5月29日(新暦7月15日)

高野一栄宅跡

高野一栄宅跡

黒瀧山向川寺

黒瀧山向川寺

黒瀧山向川寺
大石田到着の翌日、芭蕉、一栄、曽良、川水を連衆とする連句の会が開かれ、「さみだれを」一巡四句が詠まれた。この折の芭蕉の発句「さみだれをあつめてすゝしもかミ川」は、「おくのほそ道」に所収の「五月雨をあつめて早し最上川」の初稿にあたる。

その後、芭蕉は、一栄と川水を誘い、一栄宅から2kmほどのところにある黒瀧山向川寺に参詣した。帰宅後、芭蕉と曽良は川水宅で夕食の持て成しを受けている。
最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。
(おくのほそ道)
一 廿九日 夜ニ入小雨ス。発・一巡終テ、翁両人誘テ黒瀧ヘ被参詣。予所労故止。未尅被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入帰。
(曽良随行日記)

  【地図 】   参照 芭蕉について-曽良日記中の「道々俳有」は何を意味するか

  
「古き俳諧の種」をこぼした大淀三千風

大淀三千風は、15年間を松島、仙台で過ごした後、天和3年(1683年)に仙台から全国行脚の旅に出た。旅の最中の貞享3年(1686年)9月、三千風は尾花沢を訪れて30日余り滞在し、その間、村川残水、三井宗智、鈴木宗圓といった尾花沢の縁者や、鈴木似休等の旧友、大石田の一栄らと交流を図り、談林俳諧に遊んだ。鈴木清風は商用で江戸に出向いていたため旧交を暖めることはできなかった。

暮秋念(廿日)最上延沢、銀山のふもと、尾花に着ク。当所にハ予が好身(よしみ)、古友あまたあれば、三十余日休らひ、当所の誹仙、鈴木清風は古友なりしゆへとふらひしに、都桜に鞭し給ひ、いまだ関をこえざりしとなん。本意(ほい)なミながら一紙を残す。(以下略)
(「日本行脚文集」巻七)

「おくのほそ道」にある「爰に古き誹諧の種こぼれて」は、この全国行脚の折に、三千風が当地の俳人に談林俳諧を伝授したことを指し、「新古ふた道にふみまよふ」は、鈴木清風の「おくれ双六」自序にある「古今俳諧の道に踏迷ふ」を引用し、当地の俳人たちの、古風すなわち談林俳諧を継承するか、新風すなわち蕉風俳諧に交わるか、という内なる葛藤を表現したものである。  

大石田俳壇の道標となった芭蕉

芭蕉は、「新古ふた道」の「みちしるべ」たらんとし、大石田到着翌日の5月29日、一栄、芭蕉、曽良、川水を連衆とする連句の会が持たれた。これが実現したのは、大石田俳壇を引率する両名が、江戸の宗匠の訪問を心から歓迎し、蕉風俳諧に強い熱意を表明したからにほかならない。
高野一栄と高桑川水について


連句の会は、芭蕉の発句「さみだれをあつめてすゝしもかミ川」ではじまり、一栄がこれに「岸にほたるを繋ぐ舟杭」で脇を付け、曽良、川水が第三、第四と詠み連ねた。曽良の随行日記によれば、この「さみだれを」一巡四句にて当日の俳諧を終了し、その後、芭蕉は一栄、川水を誘引し、対岸の黒瀧山向川寺に参詣している。曽良は「所労(疲労)」の為に随行しなかった。

発・一巡終テ、翁両人誘テ黒瀧ヘ被参詣。予所労故止。(曽良随行日記)

当日の俳諧がなぜ一巡のみで終ったかは不明だが、随行日記に「道々俳有」とあることから推して、黒瀧山参詣に言寄せて両名に蕉風俳諧を指南した可能性、および、翌日満尾することになる「さみだれを」歌仙の句作を練り上げた可能性が見込まれる。曽良が同道していないので「道々俳有」の「俳」が、一巡四句の続き物と解釈することはできない。

未尅被帰。道々俳有。(曽良随行日記)

芭蕉について-曽良日記中の「道々俳有」は何を意味するか  

黒瀧山向川寺について

寺伝によれば、黒瀧山向川寺は、曹洞宗大本山総持寺の直末寺で、永和3年(1377年)総持寺二世峩山禅師五哲の一人、大徹宗令禅師が開山した。歴代禅師によって開かれた向川寺の末寺は、山形、宮城、秋田の3県で28を数え、孫寺は数百に及ぶ。中本山の寺格を有する向川寺は、創建のころ、数々の塔堂伽藍が建ち並ぶ一大寺院であったが、寛永14年(1637年)、文化4年(1807年)など数度の火災にあい、本堂庫裡、禅堂、客殿などの堂宇や一切経、諸仏を失った。現在に至るまで経済的困窮のため再建が叶わず、引き続き無住の時代が続いている。
資料写真と解説4(黒瀧山向川寺関連)

   
   

大石田滞在三日目
元禄2年(1689年)5月30日(新暦7月16日)

一栄宅跡

西光寺

西光寺

乗船
地 本合海

上陸
地 清川
○一栄宅跡の碑は、芭蕉真蹟の「さみだれを」歌仙碑。
○西光寺の碑は、2基ともに「さみだれを」歌仙の発句「さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川」碑。左が原碑で、右が代碑。詳しくは、次を参照。
大石田資料写真と解説(5)
○本合海と清川の碑は、いずれも「おくのほそ道」所収の「五月雨をあつめて早し最上川」句碑。
前日に引き続いて一栄宅で連句の会があり、前日の「さみだれを」一巡四句と、この日の三十二句が合せられ、歌仙「さみだれを」の巻が満尾した。

その後、芭蕉は近辺を逍遥し、帰宅後、控えた各句の清書に当った。芭蕉自らの手によるこの歌仙は、幾人かの所有者の変遷を経、現在、山形市の佐藤氏が所有されている。
最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。
(おくのほそ道)
〇一 晦日 朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺ヘ被遊、帰、物ども被書。
(曽良随行日記)

  【地図 】   参照 松尾芭蕉真蹟模写展示室-歌仙「さみだれを」の巻

  
芭蕉真筆の歌仙「さみだれを」の巻

5月30日(新暦7月16日)、「おくのほそ道」中の名句「五月雨をあつめて早し最上川」の生誕に与(あずか)る歌仙「さみだれを」が成立した。「おくのほそ道」の旅の最中にあって、芭蕉自らが筆を執ってこの「さみだれを」の巻を書き上げたという事実は、取りも直さず芭蕉の本歌仙に対する熱意の表れであり、本文の「このたびの風流爰に至れり」は、これを裏付けている。

この真筆歌仙の所有者遍歴を記せば、芭蕉が高野一栄家に残した真筆は、何代かに渡って同家に伝えられたが、後世、同じ大石田の二藤部家に譲渡された。その後、山形の某人物に渡るが、明和年中(1764年〜1772年)に地元の俳人土屋只狂(五代作兵衛)がこれを購入し、再び大石田に戻した。只狂はこの記念に芭蕉真筆の発句を模刻し句碑を建立している。この句碑は今、西光寺の境内裏庭にある。文化・文政(1804年〜1830年)の頃になると、真筆歌仙は尾花沢の柴崎家に渡り、明治の中頃になって、大石田の佐藤家に譲渡された。佐藤氏は、平成15年現在、山形市にお住まいである。

歌仙「さみだれを」の巻
  

芭蕉真筆より 曽良の俳諧書留より
さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川
岸にほたるを繋ぐ舟杭
爪ばたけいざよふ空に影待ちて
里をむかひに桑のほそミち
うしのこにこゝろなぐさむゆふまぐれ
水雲重しふところの吟
佗笠をまくらに立てやまおろし
松むすびをく国のさかひめ
永楽の古き寺領を戴て
夢とあはする大鷹のかみ
たきものゝ名を曉とかこちたる
つま紅粉うつる双六のいし
巻あぐる簾にちごのはひ入て
煩ふひとに告るあきかぜ
水替る井手の月こそ哀なれ
きぬたうちとてえらび出さる
花の後花を織らする花莚
ねはむいとなむ山かげの塔
穢多村はうきよの外の春富て
かたながりする甲斐の一乱
葎垣人も通らぬ関所
もの書たびに削るまつかぜ
星祭る髪はしらがのかるゝまで
集に遊女の名をとむる月
鹿笛にもらふもおかし塗あしだ
柴売に出て家路わするゝ
ねぶた咲木陰を昼のかげろひに
たえだえならす千日のかね
古里の友かと跡をふりかへし
ことば論する船の乘合
雪みぞれ師走の市の名残とて
煤掃の日を草庵の客
無人を古き懐帋にかぞへられ
やもめがらすのまよふ入逢
平包あすもこゆべき峰の花
山田の種をいはふむらさめ
芭蕉
一栄
曽良
川水
一栄
芭蕉
川水
曽良
芭蕉
一栄
曽良
川水
一栄
芭蕉
川水
曽良
一栄
川水
芭蕉
曽良
川水
一栄
曽良
芭蕉
一栄
川水
芭蕉
曽良
川水
一栄
曽良
芭蕉
一栄
川水
芭蕉
曽良
五月雨を集て凉し最上川
岸にほたるつなぐ舟杭
爪畠いざよふ空に影待て
里をむかひに桑の細道
うしの子に心慰む夕間暮
水雲重しふところの吟
佗笠を枕にたてゝ山颪
松むすびをく国の境め
永楽の古き寺領を戴て
夢とあハする大鷹の紙
たき物の名を曉とかこちたる
爪紅うつる双六の石
卷揚る簾にちごの這入て
煩ふ人に告る秋風
水かハる井手の月こそ哀なれ
碪打とて撰ミ出さる
花の後花を織する花莚
ねハんいとなむ山陰の塔
穢多村はうき世の外の春富て
刀狩する甲斐の一乱
八重葎人も通らぬ関所
もの書度に削ル松の風
星祭ル髪ハ白毛のかるゝ迄
集に遊女の名をとむる月
鹿苗にもらふもおかしぬり足駄
柴売に出て家路忘るゝ
ねむた咲木陰を昼のかげろいに
たえだえならす万日のかね
古里の友かと跡をふりかへし
ことば論する船の乗合
雪みぞれ師走の市の名残とて
煤掃の日を草庵の客
無人をふるき懐紙にかぞへられ
やまめがらすもまよふ入逢
平包明日も越べき峯の花
山田の種を祝ふ村雨

一栄
ソラ
川水
一栄

川水
ソラ

一栄
ソラ
川水
一栄

川水
ソラ
一栄
川水

ソラ
川水
一栄
ソラ

一栄
川水

ソラ
川水
一栄
ソラ

一栄
川水

ソラ

   
   

大石田〜猿羽根峠〜新庄、新庄滞在一日目
元禄2年(1689年)6月1日(新暦7月17日)

毒沢口

猿羽根山地蔵尊

鳥越の一里塚

柳の清水

風流宅跡
6月1日の朝、芭蕉と曽良は、3泊した大石田の高野一栄宅を後に、渋谷風流が待つ新庄城下へと旅立った。

「おくのほそ道」の旅中、蕉門に迎えられた一栄と川水は、「弥陀堂」まで芭蕉を見送り別れを告げた。芭蕉一行は、両名が用意してくれた馬で猿羽根峠から舟形宿に到り、その後、徒歩で「二リ八丁」を旅し、新庄城下の風流宅に到着した。
〇六月朔 大石田を立。辰刻、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬弐匹、舟形迄送ル。ニリ。一リ半、舟形。大石田ヨリ出手形ヲ取、ナキ沢ニ納通ル。新庄ヨリ出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共に入ニハ不構。ニリ八丁、新庄。風流ニ宿ス。
(曽良随行日記)

   【地図 】   参照 猿羽根峠資料写真と解説  新庄資料写真と解説1 2

  
猿羽根峠までの旅路

高野一栄宅に3泊した芭蕉と曽良は、6月30日、午前8時ごろに大石田を出立。蕉門に名を連ねることとなった一栄、川水も「弥陀堂」まで見送るべく芭蕉に随行した。両名は、芭蕉と曽良に感謝の意を込め、舟形までの旅に馬2頭を供したのだった。別れを惜しんだ「弥陀堂」の所在については複数の説があるが、真偽の程は明らかでない。

大石田から猿羽根峠までの旅程を記すと、大石田から通行手形(出手形)を受け取って出立した芭蕉一行は、現在の県道大石田名木沢線とほぼ同じ道筋で、岩ヶ袋、海谷、鷹巣、芦沢と北上して羽州街道に合流した。その後、名木沢の関所に通行手形を納め、この先の毒沢口から馬で羽州街道の坂道に入り、標高150mの猿羽根山の峠越えを果たしている。

随行日記にある「ニリ。一リ半、舟形。」は、「ニリ、ナキ沢(名木沢)。一リ半、舟形。」と書くべきところで、大石田から名木沢の宿駅まで2里、名木沢から舟形宿まで1里半の距離があることを示しているが、名木沢〜舟形間は実際には一里半(約6km)に満たなかったようである。  

峠越えの羽州街道

 
峠越えの道が、村山の郡の西端で右折した先に、「新荘領」を刻した藩境の標石がある。標石には元々「従是北新荘領」の文字が刻印されていたが、現在は上半分が欠損し3文字のみが残っている。この地点から更に峠を行くと、もう1つの旧跡を目にすることができる。それは、里程を示すため街道の両側に一里刻みで土を盛った一里塚である。

東北の重要幹線道路は、奥州街道と羽州街道である。奥州街道を本街道とするのに対して一方は、脇街道とよばれている。羽州街道は、福島の桑折から米沢、山形、新庄、秋田、弘前を経て青森に至る街道で参勤交代路である。宿駅制度を備えた街道として整備されたのは、慶長九年(一、六〇四)幕府が街道に一里塚を築くよう命じてからである。街道の開削整備については、羽州の大名の筆頭である秋田藩主佐竹氏が積極的になされた。その箇所をのちに「佐竹道」とよばれとくに知られている。当町に現存する一里塚は、以前郷土研究会大沢氏らによって新庄市鳥越にある一里塚より間縄をもって計測され、紫山地内の一里塚と共に当地が判明したものである。(舟形町教育委員会が建立した一里塚の説明板より)

一里塚からやや西へ下った所で、羽州街道は右に大きく折れて舟形宿へ向う。「新荘領」の標石付近で往時の道筋を絶やした旧道は、この先から再びその姿を顕にする。獣道と見紛うほどに荒れたところも見られるが、芭蕉が通った古道を宛(さなが)ら辿ることができるのは、今風の装いから見放されたこうした山内の道に限られる。そこには、旅人の汗が染み込んだ土壌があり、彼らの頬を伝った風が今も吹き寄せている。

○舟形宿は、藩内に設置された羽州街道の四宿(舟形、新庄城下、金山、及位)の1つで、羽州街道の道筋が定められたときに、近在から人を寄せて集村化された。  

猿羽根山地蔵尊

藩境の標石のやや先から羽州街道を逸れ、20段ほどの石階を上った峠の頂きに、日本三大地蔵の1つに数えられる「猿羽根山地蔵尊」がある。宝永6年(1709年)に祀られたという地蔵尊は最上四十八および山形百八地蔵尊霊場の打留霊場で、縁結び、安産、子宝、延命の地蔵として広く信仰を集めている。地蔵尊の境内から南方を見晴らすと、谷あいの先に、Uの字をこしらえて麓近くまで接近している最上川がわずかに眺められる。  
地蔵尊境内からの俯瞰

新庄城下の渋谷風流宅に到着

舟形宿に到着した芭蕉一行はここで馬を大石田に戻し、新庄城下までの残り「二リ八丁」(曽良随行日記)を持ち前の健脚ぶりを発揮して旅を続けた。城下への南入口付近にあって、一行に到着が近いことを告げた鳥越の一里塚は、片方ながら今も土盛りを残し往時の面影を伝えている。当時の新庄藩は二代藩主戸沢正誠(まさのぶ)の代で、この頃までに初代藩主政盛から継承した藩政の諸策が整い、城下は財政、文化両面において全盛の時代を迎えていた。

芭蕉が旅装を解いた豪商渋谷風流(甚兵衛)の家は、渋谷家文書「家系」や宝暦7年(1757年)刊「北本町 南本町 両町家並面附牒」から「南本町西側、大手口角から数えて六軒目」、すなわち新庄市役所からほど近い南本町の某金物店の敷地付近にあったと見られており、金物店の店先に「芭蕉遺跡風流亭跡」の石柱が建てられている。この辺りは城下随一の繁華街だったという。

○風流宅については(新庄市)上金沢町にあったとする説もある。

風流は、尾花沢で巻かれた「すずしさを」歌仙にわざわざ新庄から出向いて同座し、芭蕉に蕉門俳諧に対する熱い思いを伝えている。5月26日の夜までに、尾花沢で再度会った可能性もあるだろうが、恐らくは、この連句の会で芭蕉に是非にと自宅への立ち寄りを勧め、これが実現しての訪問ということになったのだろう。 

到着当日に詠まれたか「水の奥」三つ物

曽良の俳諧書留に、下記の「水の奥」三つ物が記されている。芭蕉が発句を詠み、風流が脇を付けた。すなわち風流主催の連句の会である。これがいつ詠まれたかについては、随行日記に記載がなく不明だが、発句「水の奥氷室尋る柳哉」に、「氷室」なる2字を詠んでいることから、到着日の宴席における作と思われる。

それは、6月1日が「氷室の節句(節会)」に当っていたからである。古来からこの日に氷室に貯蔵した氷を食する習わしがあったが、庶民の間では夏に氷という訳にもいかず、前年の12月の雪水でこしらえた「凍り餅(氷餅)」や「欠餅(かきもち)」をこの日に食し、暑気払いや夏の厄除けをしている。

また、芭蕉にこの「氷室」を想起させたのが、城下入りの際に通り掛けた「柳の清水」だったろうと推測される。この清水は、鳥越の一里塚のやや城寄りにあったもので、旅人に清冽な水を馳走してくれる旧跡だった。芭蕉も、氷水ほどに冷ややかな清水で咽を潤し、風流宅に向ったことだろう。

○現在、市の史跡に指定されている「柳の清水」は、昭和63年、地元の人々の発掘調査によって、不明だった旧跡の地が明らかにされたもの。

日本一の高温を記録している山形の夏は格別暑く、これを和らいでくれるものは、芭蕉にとって何より嬉しいもてなしだった。鈴木清風への挨拶句「涼しさを我宿にしてねまる也」、高野一栄への「さみだれをあつめてすゝしもかミ川」と、いずれにも「涼」を盛り込んだのはその現れである。芭蕉は、これと同様の心境で、発句に当地の名水「柳の清水」を詠み入れて、風流への挨拶句としたのだった。

「水の奥」三つ物 (「俳諧書留」より)
  風流亭 
水の奥氷室尋る柳哉
 
ひるがほかゝる橋のふせ芝
風渡る的の變矢に鳩鳴て
風流
ソラ
   
 
新庄滞在二日目
元禄2年(1689年)6月2日(新暦7月18日)

新庄城趾

渋谷盛信宅跡

接引寺

渋谷家累代

風流寄進
仏像
○盛信宅跡(およそ山形銀行新庄支店の敷地)は、斜向(はすむか)いの風流宅跡から撮影したもの。
○接引寺(しょういんじ)は、渋谷家の菩提寺。
○「風流寄進の仏像」は、接引寺の本尊阿弥陀如来の脇仏、観音菩薩と勢至菩薩の仏像で、両仏像の裾に「元禄八年亥六月中旬 七世良光代 施主渋谷甚兵衛」と朱書されている。元禄8年は芭蕉が没した翌年に当たる。
新庄滞在2日目のこの日、芭蕉は、渋谷九郎兵衛に招かれ、当家で「御尋に」歌仙を巻いた。連衆は、風流、芭蕉、曽良、孤松、柳風、如柳(如流)、木端の7名だった。

風流の本家にあたる渋谷九郎兵衛は風流の兄で、風流宅の斜向いに屋敷を構えていた。
二日 昼過ヨリ九郎兵衛ヘ被招。彼是、歌仙一巻有。盛信、息、塘夕(澁谷仁兵衛、柳風共)、孤松(加藤四良兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善衛門)、風流(渋谷甚兵ヘ)。
(曽良随行日記)

   【地図 】   参照 三つ物発句「風の香も南に近し最上川」の句碑(新庄市民プラザの前庭)

  
盛信亭で巻かれた歌仙と三つ物

風流宅で一夜を明かした芭蕉は、この日、渋谷盛信に招かれ昼過ぎから当家に滞在した。渋谷家文書「家系」や「北本町 南本町 両町家並面附牒」によれば、盛信こと渋谷九郎兵衛は風流の兄で、この本家の屋敷は風流宅の斜向い、およそ山形銀行新庄支店の敷地にあった。盛信は大規模な問屋業を営む商人で、城下一の豪商だったと伝えられる。

この盛信亭で一巻の歌仙が興行された。ここでは、風流が発句を詠み、芭蕉が脇を付けた。すなわち、芭蕉主催の歌仙であり、風流主催の「水の奥」三つ物に対する返礼の興行だった。同席した俳士は、風流、芭蕉、曽良、孤松、柳風、如柳(如流)、木端の7名だった。孤松は加藤四良兵衛、柳風は盛信の息子で仁兵衛、如流は今藤彦兵衛、木端は小村善衛門で、いずれも地元の俳人である。また、「馬市くれて駒むかへせん」を詠んだ「筆」は歌仙の執筆に当った人物を示し、真偽の程は不明だが、安永6年(1777年)刊の「雪の薄」に「此巻は、風流亭にて孤松といふものゝ直筆なるよし」の記述がある。

俳諧書留に併記されている「風の香」三つ物も、「御尋に」歌仙と相前後してこの日に詠まれたものと見られる。

歌仙「御尋に」の巻 (「俳諧書留」より)
御尋に我宿せばし破れ蚊や
はじめてかほる風の桾ィ
菊作り鍬に薄を折添て
霧立かくす虹のもとすゑ
そゞろ成月に二里隔けり
馬市くれて駒むかへせん
すゝけたる父が弓矢をとり伝
筆こゝろみて判を定る
梅かざす三寸もやさしき唐瓶子
簾を揚てとをすつばくら
三夜サ見る夢に古郷のおもハれし
浪の音聞島の墓ハら
雪ふらぬ松はをのれとふとりけり
萩踏しける猪のつま
行尽し月を燈の小社にて
疵洗ハんと露そゝくなり
散花の今は衣を着せ給へ
陽炎消る庭前の石
風流
芭蕉
孤松
ソラ
柳風




如柳
木端






楽しミと茶をひかせたる春水
果なき恋に長きさかやき
袖香炉煙は糸に立添て
牡丹の雫風ほのか也
老僧のいで小盃初んと
武士乱レ入東西の門
自鹿も鳴なる奧の原
羽織に包む茸狩の月
秋更て捨子にかさん菅の笠
うたひすませるミのゝ谷ぐミ
乗放牛を尋る夕間夕
出城の裙に見ゆるかゞり火
奉る供御の肴も疎にて
よごれて寒き彌宜の白張
ほりほりし石のかろとの崩けり
知らざる山に雨のつれづれ
咲かゝる花を左に袖敷て
鶯かたり胡蝶まふ宿

















「風の香」三つ物 (「俳諧書留」より)
  盛信亭
風の香も南に近し最上川
 
小家の軒を洗ふ夕立
物もなく麓は霧に埋て
息 柳風
木端
    
   
新庄〜本合海、最上川下り、清川上陸
元禄2年(1689年)6月3日(新暦7月19日)

本合海

最上峡

仙人堂

白糸の滝

上陸の地・清川
堺田、尾花沢、山寺、大石田、新庄と、出羽内陸の旅に明け暮れした芭蕉一行は、次なる庄内を目指し、2泊した風流宅を後にした。

芭蕉が大石田で見た最上川は、既に「さみだれをあつめて」満々たるものであった。果たして、最上川は、この2、3日で如何ように変化していたのだろうか。随行日記に、1日と2日の天候が記されていないのはなぜか。もし、大雨が降っていれば「舟あやうし」は必定、か。

最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。
  五月雨をあつめて早し最上川

(おくのほそ道)
〇三日 天気吉。新庄ヲ立。一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。一リ半、古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方二有。状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。
(曽良随行日記)

  【地図 】   参照 最上川写真展示室

  
本合海へ

梅雨の切れ間となったこの日、芭蕉一行は新庄に歌仙と「三つ物」の置土産をし、本合海に向けて旅立った。城下から本合海までの旅のルートは、現在の国道47号線とほぼ同じ道筋と見られており、随行日記に、その間の距離が「一リ半」とある。

当時の本合海は、その上流に位置する清水河岸(大蔵村)の枝河岸に格付けされた河港で、主に旅人や商い荷物の発着港として利用されていた。とは言っても、昔は料金を払えば簡単に乗船できるような制度ではなかったようで、芭蕉一行は、風流(甚兵衛)が書いてくれた添状のお蔭で次良兵の才覚にあずかり、ようやく乗船が可能となったようである。恐らく高野一栄(平右衛門)の添状も力したのだろう。

次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。(曽良随行日記)  

芭蕉、最上川を下る (1) 本合海を立つ
 
この節の一部にフィクションを含みます。内容は上の「本合海へ」から続きます。
  


芭蕉と曽良は、安堵して、乗船する舟の到着を待った。やがて最上川の濁流を滑るように下ってくる稲舟があり、中に先客がいた。上流の合海河岸から乗り込んだ2人の禅僧だった。

舟はすぐに本合海の河岸から離れた。満々と水を湛えた最上川は、屏風状に切り立った八向山(矢向山)の裾に流れ込み、激しく当たっている。一瞬、これに飲まれるかと思ったが、稲舟はさっと身をかわし、舳先を下流へ向けた。
  

一同、ほっと胸をなでおろし互いに顔を見合わせた。同じ僧形のよしみから、芭蕉が、深川、芭蕉などと身の上話を始めると、2人の僧は、驚いた様子で、芭蕉に声をかけた。芭蕉のことは「毒海長老」を通し、知っているのだという。

合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。(曽良随行日記)

「毒海」は、今から数年前、深川の草庵に逗留中、突然病で亡くなった老僧だった。芭蕉は、「毒海」を葬った後に、次の句を詠み哀悼している。

  毒海長老我草の戸にして、身まかり侍るを葬りて
  何ごとも招き果たる薄哉 (続深川集)

芭蕉は、因縁めいたものを感じながら無言で最上川の急湍を見つめた。

最上川は、源義経が兄頼朝に追われたときに、清川から本合海へと遡った川である。芭蕉は、一時、大石田からの舟下りも案じたが、風流の誘いに応じたのは、発着の地が逆にはなるが、義経と同じ旅を希望してのことだった。芭蕉は、義経が目にした光景を確認するように、そっと後を振り向いた。

やがて御船に乗り給ひて、清河の船頭をいや権の頭とぞ申す。御船仕度して参らせける。水上は雪しる水嵩まりて御舟を上せかねてぞありける。これや此の春、千種の少将、しやうのさらしまといふ所に流されて、(千種)「月影のみ寄するは、たなかい河の水上、いな舟のいつらしかは、最上川のはやき瀬ぞ。ことも知らぬひばの声、霞のひまに紛れる」と歌ひしも、今こそ思ひ知られけれ。かくて御舟を上する程に、山頂より落ちたぎる瀧なり。北の方、(北の方)「これをば何の瀧といふぞ」と問ひ給へば、(人々)「白糸の瀧」と申しければ、北の方かくぞつゞけ給ふ。
最上川せゞの岩波せきとめよ寄らでぞ通るしらいとのたき
もがみがは岩越す波に月さえてよるおもしろき白糸のたき
と口ずさみつゝ、鎧の明神、冑の明神拝み参らせて、たかやりのせと申す難所を、上せ煩ひておはする所に、上の山の端に猿の声のしげければ、北の方かくぞつゞけ給ひける。
ひきまはすうちはゝ弓にあらねどもたかやけ猿をいてみつるかな
かくてさし上せ給ふ程に、みるたから、たけくらべの杉などといふ所を見給ひて、やむけ(矢向)の大明神を伏拝み奉り、あい河(本合海)の津に著き給ふ。

(義経記。「直江の津にて笈さがされし事」の段)

芭蕉、最上川を下る (2) 古口番所
 
この節にフィクションは含みません。

気付けば、両岸の山々が大きく身を乗り出し、最上川に迫っている。増水時は、迫り出した山裾が天然のダムの役割を果たし、度々水害を引き起こしている。

一里半下って到着した古口(戸沢村)は、こうした水害の歴史を刻む集落であるが、昔は、この先に板敷山を行く以外陸路がなかったことから、最上川舟運の船着場として栄えた。新庄藩は、庄内藩との境目に近い当地に関所を置き、通行の取り締まりを行った。

芭蕉と曽良は、城下で受け取った出手形(通行手形)を差し出すために、ここで一旦上陸した。出手形を所持しない者は、領内から出ることを許されなかった。

曽良が、新庄の渋谷甚兵衛(風流)からもらった添状を、荷問屋の「平七」に渡すと、その子「呼四良」が代わりに出手形を番所に届けてくれた。

古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。
(曽良随行日記)

○今も「平吉」を屋号としていることから、今から4代前の戸沢村長・斎藤直吉氏の家が芭蕉一行が立ち寄った「平七」家と見られている。「平七」は、船宿または荷問屋を営んだと見られるが確かではない。

芭蕉、最上川を下る (3) 水みなぎる最上川
 
この節の一部にフィクションを含みます。

古口から船出してすぐに、船頭から大声で注意を促す声が掛かった。まもなく、角川の大水を飲み込む「柳巻」に到るという。角川は、戸沢村の高倉山を源とする川で、梅雨時は激流となって大河の横腹を抉(えぐ)り、渦を成す。この合流地点は、古来「柳巻の急流」と呼ばれ、舵取りが難しことから難所として恐れられたところである。

船頭の巧みな手さばきで、どうにか事なきを得たが、緊張は更に続いた。両岸の山々は更に迫り出し、最上川を圧迫している。川水は脹らんで轟音を立て、早瀬を成し、小舟を自在に弄んだ。船底を平らにする稲舟は、上下動が激しく、乗客は皆、必死に船縁にしがみついた。芭蕉は、身の危険を感じた。

支流の水をことごとく集めてきた最上川は、ここに至り、溺れ落ちた両岸の山々の水を直接かき集め、更に水量を増していく。

芭蕉は、最大級の難所、碁点、隼(はやぶさ)の瀬も織り込んで、この雄壮な舟下りの情景を「おくのほそ道」に認めることを決意した。発句は、一栄亭における「五月雨を集て凉し最上川」の中七を、迷いなく「あつめて早し」に改案し、採録することとした。

最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。
  五月雨をあつめて早し最上川
(おくのほそ道)

芭蕉は、この時、耳の奥で確かにいにしえ人の歌を聞いたと思った。

もがみ河のぼればくだるいな舟のいなにはあらずこの月ばかり
(東歌。古今和歌集)
もがみ川ふかきにもあへずいな舟の心かるくも帰るなるかな
(三条右大臣。後撰和歌集)  

仙人堂

緩やかなS字を描いて蛇行する最上峡の右岸に、鳥居を構えた「仙人堂」がある。仙人堂は外川神社とも呼ばれ、祭神は日本武尊である。鎧明神、兜明神、竜明神、本合海八向明神とともに「最上の五明神」に数えられ、農業や航海安全の神として信仰を集めている。

由来書に、源義経に付き従った常陸坊海尊が、この地で皆と別れ、山に篭り、修験道の奥義を極めて仙人になったとある。  

白糸の滝

仙人堂から上陸地の清川までは、さほど大きな蛇行もなく、最上川は悠然とした流れに変貌する。その中間地点に、「日本の滝百選」に選ばれている「白糸の滝」がある。滝の高さは124mで日本で6位、全長は223mある。八合目付近から湧き水が出ているため、日照りが続いても水枯れはしないという。

滝壷近くが浅瀬になっているため舟寄せができず、遠望するのみであるが、古来より数多くの文人墨客を迎えた出羽国きっての歌枕「白糸の滝」は、今もなお、真っ白い糸を縒(よ)り纏めたような優美な姿を青葉の隙間に現し、清らかな水音を響かせている。

最上川滝の白糸くる人の心によらぬはあらじとぞ思ふ
(源重之。夫木集)
最上川せゞの岩波せきとめよ寄らでぞ通るしらいとのたき
もがみがは岩越す波に月さえてよるおもしろき白糸のたき
(北の方。義経記)  

清川上陸

白糸の滝から、最上川と立谷沢川の合流地点、清川口まで来ると、その昔、清川関所が置かれていた清川小学校まで、余すところ300mほどとなる。芭蕉一行は、古口の船番所におけると同様、手抜かりの無い添状を用意して無事関所を通過するべきところ、何かの手違いがあったらしく、下船に待ったがかけられた。しかし、この先、狩川、手向と順調に旅が続けられたのであるから、最終的には清川で上陸が果たせた、ということになる。

舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方二有。状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。(曽良随行日記)

現在、関所跡に芭蕉像や「芭蕉上陸之地」の石碑、「五月雨を」句碑などが建ち、清川が芭蕉および「おくのほそ道」ゆかりの地であることを顕彰している。句碑は昭和31年(1956)の建立で、芭蕉像と石碑の方は、「松尾芭蕉像建立委員会」の呼びかけで集った募金などをもとに、平成2年(1990年)に建立されたものである。

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資 料 提 供

大石田町役場総務企画課・産業振興課

新庄市教育委員会生涯学習課

舟形町役場観光課

戸沢村教育委員会社会教育課

立川町(現庄内町)教育委員会社会教育課


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最上峡芭蕉ライン観光株式会社


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