出羽三山について

出羽三山について

出羽三山は、磐梯朝日国立公園の一角をなし、古くは、月山、羽黒山、葉山の総称で、湯殿山をその奥の院としたが、室町末期、葉山に代わって湯殿山が三山に名を連ねた。

伝説によれば、この三山は、曽我馬子に殺された三十二代崇峻天皇の第三皇子・蜂子皇子(参拂理。弘海)が開山とされる。用明元年(585年)、従兄弟にあたる聖徳太子の勧めで宮中を脱出し、海路北へ渡った皇子は、推古元年(593年)、出羽国由良の八乙女の海岸に上陸。三本足の霊烏の導きを得て、まず、羽黒山の阿久谷に入って難行を積み、羽黒大神の示現を受けるところとなった。

その後、皇子は、羽黒山腹の荒沢で修行を重ねたのち、月山に登って月山大神の示現を受け、続いて、湯殿山に渡り湯殿山大神の霊徳を得たという。以後、皇子は、能除太子(能除仙)の名の通り、終生当地に身を置いて能く諸人の病苦を救い、荒れ野の開拓や殖産に力を注いだと伝えられる。皇子の歿後は、弟子の弘俊らによって修行道の教えが受け継がれた。
 

出羽三山の神仏習合について

出羽三山に祭られている神は、月山が天照大神の弟神の月読命、羽黒山が伊波(いでは)神と倉稲魂命、湯殿山が大山祇命と大己貴命と少彦名命であるが、こうした、山そのものを日本古来の神として崇拝してきた山岳信仰は、奈良時代に入ると、外来の密教や道教、儒教に影響された仏教者が、修行の地を求めて山岳に入ったことから有り様を変え、神仏が渾然一体となって定着するようになった。

その根本となった思想が、神は衆生救済のため姿を変えて現れた仏であるとする本地垂迹説であり、出羽三山においては、羽黒山神の本地を観世音菩薩として山頂に寂光寺が建立され、月山神は阿弥陀如来、湯殿山神は大日如来が本地と定められた。神仏習合の宗教形態は、神社の境内に神宮寺、別当寺を建てる様相にて、明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されるまで続いた。
 

羽黒派修験道について

こうした神仏習合の習いの中、当地に、蜂子皇子の修行道を基盤とする修験道が発生し、発達していくこととなる。これに力したのが福島信夫の里を生れとする弟子弘俊で、弘俊は、大化元年(645年)、孝徳天皇より出羽三山の執行(羽黒の宗教上の長官)に任ぜられている。このほかに、加賀白山を開いた越前の泰澄や、修験道の祖とされ、吉野の金峰山や大峰を開いたことで知られる大和国の役行者(小角)、役行者の流れを汲む出羽の黒珍も、羽黒修験の発展との関わりが伝えられる。

修験道は、山岳修行の実践によって超験力の体得を目指す宗教で、羽黒山を本山とする修験を羽黒派修験道または羽黒派古修験道という。特に「羽黒派」と称するのは、修験を両分した真言宗当山派と天台宗本山流のいずれにも属さず、独自の信仰を確立したことに依るもので、羽黒の修験は、平安末期から鎌倉期にかけて、藤原秀衡や源頼朝等の庇護及び強固な宗権を背景に隆盛を極めた。

承安2年(1172年)秀衡が増修した羽黒本社や、建久4年(1193年)頼朝が奥州征伐の謝礼として建てた正善院黄金堂、建治元年(1275年)北条時宗が蒙古軍の退散を羽黒の霊威と称えて寄進した大鐘など、境内に散見される遺構から、時の権力者が羽黒派修験道の発展に関わった側面が窺い知られる。また、羽黒修験は、「義経記」の中で、平泉に下る義経主従が身をやつした山伏として語られ、有名である。

判官 「奥州へ下らんと思ふに、何れの道にかゝりてかよからんずるぞ」
と仰せられければ、各々申しけるは、
各々 「東海道こそ名所にて候へ、東山道は切所なれば、自然の事あらんずる時は、よけて行くべき方もなし。北陸道越前の国敦賀の津に下りて、出羽国の方へ行かんずる船に便船して、よかるべし」とて道は定め、さて姿をばいかようにして下るべきと、様々に申しける中に、増尾の七郎申しけるは、
増尾 「御心安く御下りあるべきに候はゞ、御出家候うて御下り候へ」と申しければ、
判官 「終にはさこそあらんずらめども、南都勤修坊の千度出家せよと教化せられしを背きて今身の置所なきまゝに、出家しけると聞えんも恥しければ、此度はいかにもして、様をも変へず下らばや」と宣ひければ、片岡申しけるは、
片岡 「さらば山伏の御姿にて御下り候へ」と申しければ、(中略)
判官 「どこ山伏と問はんずる時は、どこ山伏とか言はんずる」
弁慶 「越後国直江の津は北陸道の中途にて候へば、それより此方にては羽黒山伏の熊野へ参り下向するぞと申すべき。それよりあなた(彼方)にては熊野山伏の羽黒に参ると申すべき」
判官 「羽黒の案内知りたらん者やある。羽黒には、どの坊に誰がしと云ふ者ぞと問はんずる時は如何せんずる」。弁慶申しけるは、
弁慶 「西塔に候ひし時、羽黒の者とて、御上の坊に候ひしもの申し候ひしは、大黒塔の別当の坊に荒讃岐と申す法師に、弁慶はちとも違はぬ由申し候ひしかば、弁慶をば荒讃岐と申し候ふべし。常陸坊をば小先達として筑前坊」とぞ申しける。
(義経記「判官北国落の事」の章段から)

 

江戸時代の羽黒山について

関八州、信越、東北における修験の大道場として隆盛を極めた羽黒山であるが、鎌倉末期から戦国時代にかけては、朝幕の攻防戦および諸豪の勢力争いに巻き込まれ、その余波によって一山衆徒の結束が弱化し、社領が狭められた。こうした中、関が原の戦いに戦功のあった最上義光(よしあき)が、かつて武藤氏と戦って占領した庄内の地を再び領有し、江戸時代を迎えた。

このころ羽黒山の別当職(一山の政務を統括)にあったのが、武藤氏の流れを汲む慶俊だった。義光は、慶俊に代ってその弟子宥源を別当に据え、荒廃した羽黒山の再興に着手した。失った社領の一部回復や、羽黒本社の修造、神橋の架け替え、五重塔、黄金堂などの修復事業などがその業績として今に伝えられる。

慶長19年(1614年)に義光が没した後、最上家は、生前から続いていた家督後継の争いのため元和8年(1622年)改易に追い込まれ、五十七万石が一万石に減封された。これにより、鶴岡十四万石酒井忠勝が庄内を領有するところとなり、羽黒山は、再興の望みを託した大檀那・最上氏を失った。

当時の別当は、元和3年(1617年)68歳の生涯を閉じた宥源の弟子宥俊だった。宥俊は、宥源の御影堂や普賢堂などの建造、開山堂の修造、五重塔の屋根葺き替えなどの業績を残すほか、羽黒山内の杉や松の植栽に力したと伝えられる。寛永7年(1630年)、宥俊は、51歳の時に別当を弟子宥誉(後の天宥)に譲り、自らも山内にあって一山の宗政を統括する執行職に就いた。
 

宥誉(天宥)と天台への改宗について

若干25歳にして第50代別当となった宥誉は、宥俊の後見を受けながら羽黒山の再建に取り組み、宥俊の歿後は執行も兼務した。宥誉は西村山郡川土居村(現在の西川町)の安中坊の出と見られ、7歳にして宥俊に師事したと伝えられる。

寛永11年(1634年)、宥誉は、羽黒山ひいては出羽三山の再建を願い、師の宥俊同道にて三代将軍家光に謁見した。これは、徳川家が天海僧正を崇敬して天台宗に帰依したことに鑑み、幕府の御墨付のもと、真言の宗風にあった出羽三山を天台宗に改めて東叡山寛永寺の末寺となることを画したものだった。宥誉は、寛永18年(1641年)この大願成就を期して天海の弟子となり、師の一字を貰って名を「天宥」に改めた。

羽黒山にあっては、日光東照宮を勧請して山内に祭り、一の坂下の普賢堂から六百七十間に及ぶ参道に切石を敷くなど、天宥は、様々に手を尽し天台による三山統一を目指したが、弟子に就いた2年後の寛永20年(1643年)、天海が遷化した。これにより天宥は強力な後ろ楯を失い、ついに、真言を貫く湯殿山四ヶ寺(本道寺、大日寺、大日坊、注連寺)を天台羽黒に配することはできなかった。

そればかりか、天宥が、極老が執行職に就くという古来の習いを無視して自ら執行になったことや、南谷に金子(きんす)三百五十両を出費して壮大な伽藍を造営したことなどから、羽黒衆徒の智憲院や愛染院など五名と軋轢が生じ、対立する事態となった。ついには、幕府を巻き込んだ裁判沙汰にまで発展し、その結果、天宥は寛文8年(1668年)4月伊豆新島に流された。

この遠島の判決については、当時、天宥が百姓一揆の者を匿(かくま)ったことから領主酒井忠勝と対立しており、その忠勝が幕府の命で事の取り調べに当ったことが原因し、吟味が、天宥に不利に行われたとする捉え方もある。天宥は、新島で7年の歳月を過ごしたが、延宝2年(1674年)10月に82歳の生涯を閉じた。
 

芭蕉を迎えた羽黒山

芭蕉が、羽黒を訪れたのは元禄2年(1689年)、天宥の死から15年後のことである。芭蕉一行は、6月3日、出羽三山の門前集落・手向(とうげ)に到着後、図司呂丸の案内で、日の落ちた羽黒山参道を登り南谷にたどり着いた。

別当執行代の会覚阿闍梨に謁したのはその翌日である。羽黒山の当時の別当は、本山である東叡山の大円覚院公雄であったが、実際には赴任せず、その院代として、法名を和合院照寂とする高僧、会覚が東叡山から派遣されていた。

芭蕉が羽黒山滞在中に居所とした南谷の玄陽院は、天宥が寛文2年(1662年)に造営した紫苑寺が寛文12年(1672年)10月に焼失したことから、山頂にあった玄陽院を本坊若王寺の別院として、紫苑寺の跡地に移築したものだった。

芭蕉主従は、到着から2日後の6月5日、断食して潔斎したのち首に注連を掛け羽黒権現に参拝した。6日には、強力を伴い、浄衣、宝冠を身にした道者の姿にて月山に登拝した。一行は、山頂の山小屋にて一宿をし、翌7日、西の斜面を下って湯殿山神社に参拝。同日、南谷別院に戻っている。

芭蕉は、羽黒山に滞在中、天宥を追悼しその業績を称える下記の「天宥法印追悼句文」を羽黒山に遺したほか、三山の句を認めた短冊を会覚に書き贈った。現在、「天宥法印追悼句文」は出羽三山神社の宝物として歴史博物館に、短冊は長谷川コレクションとして山形美術館に、それぞれ収蔵・展示されている。                                        

芭蕉庵桃青桃青拝
羽黒山別当執行不分叟天宥法印は、行法いみじききこ(聞)え有て、止観円覚の仏智才用、人にほどこ(施)して、あるは山を穿、石を刻て、巨霊が力、女がたく(工)みを尽して、坊舎を築、階を作れる、青雲の滴をうけて、筧の水とほ(遠)くめぐらせ、石の器・木の工、此山の奇物となれるもの多シ。一山挙て其名をした(慕)ひ、其徳をあふ(仰)ぐ。まことにふたゝび羽山開基にひとし。されどもいかなる天災のなせるにやあらん、いづ(伊豆)の国八重の汐風に身をただよ(漂)ひて、波の露はかなきたよ(便)りをなむ告侍るとかや。此度下官、三山順礼の序、追悼一句奉るべきよし、門徒等しきりにすゝ(勧)めらるゝによりて、をろをろ戯言一句をつらねて、香の後二手向侍る。いと憚多事になん侍る。
  其玉や羽黒にかへす法の月
  元禄二年季夏


芭蕉真筆「天宥法印追悼句文」 芭蕉真筆「出羽三山短冊」

 

出羽三山の神仏分離について

それから約180年を経て幕府が倒れると、維新政府は、奈良、平安の昔から続いた神仏習合の習いを打ち崩し、神社施設から仏教に関わる一切を排除する施策を打ち出した。これにより、神社から寺院や仏像が取り払われ、神を菩薩や権現などの仏語で表すること、僧形にて奉仕することなどが禁じられた。

慶応4年(1868年)3月交付の神仏判然令が出羽三山に通達されたのは、1年余後の明治2年5月だった。千年を越える昔から仏教色を色濃くした出羽三山は、この事態に困難を極めたことが伝えられ、終結に至ったのは5年後の明治7年だったという。

出羽三山の神仏分離は、湯殿山の大日坊、注連寺が仏道として残ったほか、すべてが神道に復して遂行された。羽黒山に現存している五重塔や鐘楼は、この折に、文化財保存の意味合いから破壊を免れた神仏混淆期の遺構である。



【本文監修】 出羽三山神社


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第24集 芭蕉と出羽三山
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