芭蕉が出羽三山に残した8日間の足跡
おくのほそ道文学館収蔵

芭蕉一行は、6月3日手向に到着後、図司呂丸の案内で日の落ちた参道を登り、南谷別院にたどり着いた。到着から2日後の5日、断食して潔斎したのち首に注連を掛け羽黒権現に参拝。6日には、強力を伴い、浄衣、宝冠を身にした道者の姿にて月山に登拝した。一行は、山頂小屋に一宿し、翌7日、西の斜面を下って湯殿山神社に参拝。同日、南谷に戻り、鶴岡へ旅立つ10日まで滞在した。

 

元禄2年(1689年)6月3日(新暦7月19日)

おくのほそ道
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。
 
曽良随行日記
〇三日 天気吉。(中略)一リ半、厂川。ニリ半、羽黒手向。荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院ヘ、大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子ヘ渡。本坊ヘ持参、再帰テ、南谷ヘ同道。祓川ノ辺ヨリクラク成。本坊ノ院居所也。

〇四日 天気吉。昼時、本坊ヘ蕎切ニテ被招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢。互ニ泣涕ヌ。

 

 
清川から手向までの旅路
 


立谷沢川

庄内町・清川

庄内町・狩川

藤島町・添川

羽黒町・手向

 
白糸の滝から下流方向に最上川をたどると、やがて立谷沢川の流れに差し掛かる。月山の水を源流とする立谷沢川は、庄内平野の大水田に水を通す北楯大堰に分流したのち、戊辰戦争の舞台となった「御殿林」付近で、最上川に合流する。そのすぐ下流域の左岸が、庄内に入る五関所の一つに数えられた清川の関所跡である。

芭蕉一行は、この河港から上陸を果たしたのち、最上川と北楯大堰の間を西に伸びる清川街道を、かつて北楯大学利長が城を構えた狩川まで一里半の道のりを旅し、ここから南に進路を変え、一路、出羽三山の門前集落、手向(とうげ)を目指した。

北楯大堰    狩川城跡   
「清川から月山まで」の地図

前方に出羽山地の連なりを、左に庄内平野の田園風景を眺めながら、添津、三ヶ沢と旅を進めると、やがて藤島町の山中に入り、道の両側に木立を見る風景に一転する。そうして2、3km山坂の道を行けば、いよいよ羽黒町の手向に到着する。

手向は、月山登拝口に開けた山岳宗教の集落群「八方七口」の一つで、近世期には、この村里に妻帯の衆徒三百六十坊が住まい、参詣者や行者・修験者の宿坊を営み、あるいは先達などを勤めていた。現在も、道沿いに威風ある表構えの宿坊が散見され、往時の殷盛ぶりを窺わせている。

○「八方七口」の七口は、羽黒(手向・荒沢)、大網(大日坊)、七五三掛(注連寺。注連掛とも)、本道寺、岩根沢、大井沢(大日寺)、肘折の登山口を指す。これに川代口を含めて「八方」という。

  
呂丸こと近藤左吉宅を訪問
 


手向の町並み

黄金堂

宿坊・大進坊

呂丸宅跡へ

呂丸宅跡

 
芭蕉一行は、目抜き通りに正善院や黄金堂を配する町並みを歩き、午後4時ごろ図司呂丸(露丸)こと近藤左吉の家に到着した。呂丸は、鶴岡の藩士図士家に生まれ、手向で山伏の摺り衣を染める染屋を営んでいた。また、呂丸は、俳諧に長けて当時羽黒俳壇の中核にあり、芭蕉が大石田で交流した高野一栄とも面識があった。

芭蕉と呂丸との関わりについて

芭蕉が到着のとき、呂丸は本坊、宝前院若王寺に出向いて留守だった。宝前院は、当時、羽黒山参道「二の坂」の先にあった一大伽藍で、本院は、もと山頂にあったが、第50代別当執行天宥の時に、寺院の失火から羽黒本社が類焼するのを恐れ、当所に移築されたものと伝えられる。

出羽三山絵図参照

芭蕉は、本坊から帰った呂丸に、高野一栄から預かった別当代会覚阿闍梨宛の紹介状を手渡すと、呂丸は、再び参道を登り本坊に向った。会覚は、芭蕉と曽良を直ちに南谷に案内するよう呂丸に言い付けたと見られ、一行は、暮れかかる中、別院玄陽院に出向くこととなった。

 
芭蕉、南谷に向う
 


石鳥居と随神門

神橋と須賀の滝

羽黒山五重塔

羽黒山の参道

南谷別院跡

 
呂丸宅から緩やかな傾斜の坂道を7、800m歩くと、大きな石鳥居を構える羽黒山の登り口に至る。その先の継子坂を下った一行は、須賀の滝の水音が響く祓川の谷あいに出た。須賀の滝は、承応3年(1654年)、天宥が延々と堰をこしらえて、約8km離れた水呑沢からの水を落としたもので、明治初年の神仏分離までは不動の滝と呼ばれていた。

祓川をあとに切石段の参道を進み行くと、千歳余の齢を重ねる「爺杉」があり、その背後に、国風文化が栄えたころ、東の武将平将門が創建したと伝えられる五重塔がある。芭蕉一行は、このやや上方から一の坂に入ると、二の坂まで千を越える石段を登り、南谷の別院へと向った。

羽黒山の参道に敷かれている石段は総計2446段と言われ、山頂に接する十五童坂まで続いている。この普請工事は、天宥が山内に日光東照宮を勧請した正保2年(1645年)から3年後の慶安元年に始められたもので、在職中に築き上げた道の長さは、全長1.7kmのうち約1.2kmに及ぶ。

第五十代別当執行天宥について

また、参道の両側に聳える杉の巨木も、天宥が在職中に植林したものと伝えられ、平成16年の時点で400本以上を数えている。これに混じって樹齢4、500年に達する老杉もあり、直径1mを越すものが至る所で見受けられる。

天宥が羽黒山に残した業績はこの外にも数々伝えられる。寛文2年(1662年)から同5年にかけて行われた南谷の築造もその一つで、自らの別当寺紫苑寺を含む大伽藍は実に壮大で、人目を驚かすほどだったという。芭蕉が訪ねた元禄2年当時は、寛文12年(1672年)の火災により紫苑寺の建物は失われ、跡地に、二の坂上にあった本坊宝前院若王寺の別院として玄陽院が建てられていた。

芭蕉一行は、三の坂下の参道から南に分岐する細道を五町ばかり歩き、南谷に到着した。宿泊施設も兼ねた玄陽院には、先客として、随行日記に「希有(思いがけなく)観修坊釣雪逢。互ニ泣涕ヌ」と記す、釣雪なる人物がいた。

曽良は、懐かしさの余り互いに涙を流したと書いているが、この京都(俳諧書留に「花洛」の人とある)の僧が、芭蕉とも旧知であったかは不明であり、また、「あら野(曠野)」などに名を連ねる、名古屋住の大橋市左衛門も「釣雪」を号した人だが、この両者が同一人であったかどうかについても明らかではない。

  

元禄2年(1689年)6月4日(新暦7月20日)

おくのほそ道
四日、本坊にをゐて誹諧興行。 有難や雪をかほらす南谷
 
曽良随行日記
〇四日 天気吉。昼時、本坊ヘ蕎切ニテ被招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢。互ニ泣涕ヌ。
 

 
会覚に謁見し、俳諧を興行
 


本坊宝前院跡(1)

本坊跡(2)

出羽三山絵図

三日月塚
(芭蕉塚)

地図

 
玄陽院で朝を迎えた芭蕉と曽良は、会覚阿闍梨に謁見するため、昼になって本坊宝前院若王寺に出向いた。羽黒山の当時の別当は、本山である東叡山の大円覚院公雄であったが、実際には赴任せず、その院代として、法名を和合院照寂とする高僧、会覚が東叡山から派遣されていた。

本坊で振舞われた昼食は、現在、麺として食する「蕎麦(そば)切り」だった。当時、特にこのように呼んだのは、まだ蕎麦を団子状にして食する旧来の習慣が残っていたからである。この折、芭蕉は「南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入」(随行日記)の二僧と会している。「浄教院」は、盛岡藩主南部重信の代参として羽黒山に来ていた南部法輪院の僧珠妙で、円入は近江飯道寺の僧である。

食事の後、芭蕉、会覚、呂丸、曽良、釣雪、珠妙、円入、梨水の8名による歌仙の会が、本坊で興行された。主催者は会覚だが、脇は呂丸に譲り、自らは、挙句の前の花の句を詠むにとどめている。歌仙の場合、半分に折った懐紙を2枚用い、1枚目(初折)の表に6句、裏に12句、2枚目(名残)の表に12句、裏に6句を書くが、当日の句会では、会覚と円入を除く各人が一句ずつを詠み、表6句で切り上げた。
 

 
「有難や」の発句について
 

霊山の森を借景とした幽邃(ゆうすい)の地に身をゆだね、静養の時を過ごすこととなった芭蕉は、残雪の谷あいから吹き寄す薫風に、森の香に混じって、ほのかな雪の香りを体感した。それは、暑さに火照り、旅に疲れた身体にとって、五感のすべてを駆使して感受すべき有り難い風だった。

こうした思いを込めて、「憐愍の情」を傾ける旅の支援者に挨拶句として披露された「有難や雪をかほらす風の音」は、後に、「雪をかほらす風」の地を一点「南谷」に絞って引き締められ、「有難や雪をかほらす南谷」の句形で「おくのほそ道」に採録された。

本句は、其角編「花摘」(元禄3年奥書)においては「有難や雪をめぐらす風の音」であり、芭蕉自筆本(中尾本)の所収句は、素龍本と同じ「有難や雪をかほらす南谷」だが、中七の「めぐら」を見せ消ちにして「かほら」に改められている。このことから、決定稿に至るまでの推敲過程を推し量ると、次のようになる。
有難や雪をかほらす風の音 (俳諧書留)
有難や雪をめぐらす風の音
(花摘)
有難や雪を
めぐらす南谷
有難や雪をかほらす南谷  (「おくのほそ道」中尾本)
有難や雪をかほらす南谷  
(「おくのほそ道」素龍本)

平成13年、環境省は「豊かなかおりとその源となる自然や文化・生活を一体として将来に残し、伝えていくため」、全国から候補地を募集し、同年10月、「かおり風景」として100の地点を選定した。その一つに、芭蕉の訪問および「有難や」の句が大きく力して、「羽黒山南谷の蘚苔と杉並木 」が選ばれ、杉、蘚苔、残雪、風が、その香りの源として取り上げられた。
 

歌仙「有難や」の巻
羽黒山本坊ニおゐて興行 元禄二 六月四日
有難や雪をかほらす風の音
住程人のむすぶ夏草
川船のつなに蛍を引立て
鵜の飛跡に見ゆる三日月
澄水に天の浮べる秋の風
北も南も碪打けり
眠りて昼のかげりに笠脱て
百里の旅を木曽の牛追
山つくす心に城の記をかゝん
斧持すくむ神木の森
歌よミのあと慕行宿なくて
豆うたぬ夜は何となく鬼
古御所を寺になしたる桧皮葺
糸に立枝にさまざまの萩
月見よと引起されて恥しき
髪あふがするうすものゝ露
まつはるゝ犬のかざしに花折て
的場のすえに咲る山吹

露丸
曽良
釣雪
珠妙
梨水











春を経し七ツの年の力石
汲でいたゞく醒ヶ井の水
足引のこしかた迄も捻蓑円
敵の門に二夜寝にけり
かき消る夢は野中の地蔵にて
妻恋するか山犬の聲
薄雪は橡の枯葉の上寒く
湯の香に曇るあさ日淋しき
むささびの音を狩宿に矢を矧て
篠かけしぼる夜終の法
月山の嵐の風ぞ骨にしむ
鍛冶が火残す稲づまのかげ
散かいの桐に見付し心太
鳴子をどろく片藪の窓
盗人に連添妹が身を泣て
いのりもつきぬ関々の神
盃のさかなに流す花の浪
幕うち揚るつばくらの舞


円入













会覚
芭蕉 七 梨水 五    露丸 八    円入 二 江州飯道寺
ソラ 六 会覚 一 本坊 釣雪 六 花洛 珠妙 一 南部法輪院
(曽良俳諧書留)
 

元禄2年(1689年)6月5日(新暦7月21日)

おくのほそ道
五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。 延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。 「羽州黒山」を中略して「羽黒山と云」にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。 月山・湯殿を合て三山とす。 当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。
 
曽良随行日記
〇五日 朝の間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ註連カク。夕飯過テ、先、羽黒ノ神前に詣。帰、俳、一折ニミチヌ。
 

 
羽黒本社に参る
 


十五童坂と鳥居

三神合祭殿

鏡池

山頂の芭蕉像

隣の三山句碑

 
古来、出羽三山を巡る修行は「三関三渡」と称され、「生と死と再生」の道、すなわち、観世音菩薩を本地とする羽黒山、阿弥陀如来の月山、大日如来の湯殿山の三関を巡って、現在、過去(死後)、未来の三世を渡ることを意味した。

芭蕉は、この日、出羽三山参りを前にして、昼まで断食して潔斎をし、木綿注連を首に掛けて過ごした。夕食を終えると、南谷から三の坂へ向って山頂まで登り、羽黒本社(現在の三神合祭殿)に詣でている。当時はまだ奈良時代以来の神仏習合が踏襲され、社堂には、伊波(いでは)神と倉稲魂命が祭られ、その本地として観世音菩薩が祭られていた。

こうした神仏混淆の有様は、芭蕉主従をして、「権現に詣」(芭蕉)、「羽黒ノ神前に詣」(曽良)という異なる言葉遣いをさせている。芭蕉のこうした姿勢は尤もとして、僧形の同伴者ながら吉川惟足に師事し神道を修得している曽良にとっては、これもまた、尤もな書き方であったのだろう。

出羽三山の神仏習合について

日記に「帰、俳、一折ニミチヌ」とある。これは、羽黒本社参詣から南谷に帰った後、前日、表6句で切り上げられた八吟歌仙の続きが詠まれたことを記したもので、「一折ニミチヌ」から、この日までに、初折の表と裏、すなわち歌仙の半分を終えたことが分る。一巻を詠み終えたのは、鶴岡へ旅立つ前日の6月9日だった。

○「潔斎(けっさい)」は、神仏に関する行事や行いの前に心身を清めること。
○「木綿注連(ゆうしめ)」は、
不浄なものの侵入を防ぐため首に掛けて胸に垂らすもの。白い紙をひも状に縒(よ)り、これを編んで作る。古くは、白い布を材料にしたという。

 

元禄2年(1689年)6月6日(新暦7月22日)

おくのほそ道
八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。
 
曽良随行日記
〇六日 天気吉。登山。三リ、強清水、ニリ、平清水(ヒラシミツ)、ニリ、高清(高清水)、是迄馬足叶。道人家小ヤガケ也。彌陀原コヤ有。中食ス。是ヨリフダラ、ニゴリ沢、御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。
〇本道寺へも、岩根沢へも行也。

 

 
芭蕉、月山に登る
 


山頂の旧登山道

吹越寺

当地の旧登山道

荒沢寺

当地の旧登山道

 
羽黒山から月山山頂までの巡礼の道は、実際には六里半ほどの道のりながら、古くから「木立三里、草原三里、石原三里」と言われてきた。これは、三合目の神子石までブナや松が茂る高木の道を三里行けば、八合目の弥陀ヶ原まで草原の道が三里あり、その後、山頂まで石原の道が三里続くことを意味した。
  

半合目 一合目 二合目 三合目 四合目
笠骨 海道坂 大満 神子坂 強清水
五合目 六合目 七合目 八合目 九合目
狩籠 平清水 合清水(旧高清水) 弥陀ヶ原 仏生池

 
かつては、合目毎にそれぞれの名物を売る小屋があって休憩や宿泊に利用されたが、今日では、八合目まで車の通行が可能となったことから、山小屋のある所は、八合目の弥陀が原と九合目の仏生池、山頂の三箇所のみとなった。

旧登山道は、雑草に覆われて道なき道と化していたが、出羽三山歴史回廊踏査・整備実行委員会およびボランティアの人々の努力によって、現在は、かつての小屋跡を訪ねながらの歩行登山も可能となっている。

随行日記によれば、芭蕉と曽良は、6月6日、一人の強力(ごうりき)とともに、浄衣・宝冠を身に付け、木綿注連(ゆうしめ)を胸に垂らした道者の姿にて月山を目指した。南谷から羽黒山頂に出た一行は、吹越寺から荒沢寺に通じる道を下り、荒沢寺の境内から半合目の笠骨に向けて南進している。 

 
八合目の弥陀ヶ原から東補陀落へ
 


八合目駐車場

眼下の光景

山頂方向

弥陀ヶ原

月山中之宮

笠骨から六合目の平清水まで、旧登山道は、月山高原ラインとほぼ同じルートをたどり、六合目からは、高原ラインが東から南へ大きく迂回するのに対して、旧道は、途中に七合目を置いてそのまま南東方向に直進し、八合目の手前でこれと交差する。

七合目は、その昔、騎馬で登った人の終着地点で、当所に100人以上泊まれる山小屋があったという。随行日記に「高清(高清水)、是迄馬足叶」と記され
ていることから、芭蕉も、七合目まで馬を利用した可能性が見込まれる。

「清川から月山まで」の地図を参照

一行は、高清水から八合目の弥陀ヶ原に到ると、まず月山中之宮に参詣をし、当所で昼食をとった後、引き続き、東の斜面を下り東補陀落に赴いた。当時は、これを順路とし、東補陀落で観音、弥陀、薬師の三尊や立岩の三宝荒神などを拝したのち弥陀ヶ原まで戻り、それから月山を目指したのだという。

高山植物の群生地として知られる弥陀ヶ原は御田ヶ原ともいい、標高1400m〜1500mのところに位置する。「弥陀」は、月山権現の本地が阿弥陀如来であることに因み、「御田」の称は、南北1km、東西0.6kmの湿原帯に「いろは四十八沼」と呼ばれる池塘(ちとう)があり、これに稲穂に似た実を付けるホンモンジスゲが生えることに由来する。

中之宮は、御田原神社が鎮座するところで、当所の山小屋(御田原参籠所)では食事ができるほか、宿泊施設も備えている。随行日記に「是ヨリフダラ、ニゴリ沢、御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成」と書かれている東補陀落は、修験者が峰入修行を行う秘所であり、絶壁を鉄梯子で下る難所の先に、弁財天を祭る御浜池がある。

 
九合目の仏生池へ
 


無量坂

弥陀ヶ原を俯瞰

低木の群落

「河原」の風景

畳石
 
芭蕉一行は、東補陀落への巡礼から戻ると、再び、南方に高まる霊峰に向けて歩みを始めた。いよいよ「石原三里」の道筋に達すると、先人の言葉の通りに、大小の石が土を隠す石踏みの道となる。茂みの中で、思い思いにさえずる鶯(うぐいす)を聞きながら「無量坂」を登り、今来た道を振り返れば、眼下に、大小の池塘を点々と配置する弥陀ヶ原の佳景が、大きく広がる。

体の向きを戻して見る峰側も、また絶景である。広野原一面にチシマザサなどの低潅木を敷き詰める霊峰月山は、その奥の際(きわ)から徐々に大きく盛り上がり、その先に、山肌から三角に突き出した「一の岳」の頂き(標高1,679m)が見られる。20分ばかりを要して、これを正面の位置から次第に右へ移り見るように登り続ければ、「畳石」の普請坂を経て、仏生池のある九合目に到達する。

 
九合目から頂上を目指して
 


九合目の風景

仏生池

仏生池小屋

行者返し

モックラ坂
 
水神八大竜王や三十六童子の伝説を秘めた仏生池は、海抜1,720mのところにある周囲20mほどの小池で、クロサンショウウオの生息地として知られる。周辺は高山植物の宝庫で、トウゲブキやハクサンフウロなどが群生している。八合目の弥陀ヶ原からここまで、高低差300mを登り詰めるのに約1時間20分、山頂まで更に同程度の時間が必要となる。

真の頂きを背後に隠し、自らを頂上と「思わし」める「オモワシ山」(1,828m)の腹を、大石を踏みながら左に回れば、やがて、前方に「行者返し」の難所が見えてくる。昔、かの役行者が山頂を目指したときに、蜂子皇子に仕える除魔童子と金剛童子が現れて、修行が未熟であるからと押し戻したところと伝えられる。

この先の「モックラ坂」は、緩やかに傾斜した石敷きの坂道で、これを登り詰めるころ、前方右寄りに、ピラミッド型をした月山の頂きが見えてくる。標高1984mの頂点につづく稜線は極めて緩やかで、そこに木歩道が築かれている。これを端まで歩き、最後の岩石越えの道を踏破すれば、まもなく、「八方七口」から延びるすべての登拝道が、月山神社の絶頂で一つになる。

 
山頂到着と月山の月
 

芭蕉が月山に足を踏み入れたのは、新暦で7月22日。このころ、月山は、まだ冬の名残りを失わず、山肌にかなりの雪を残している。こうした中、氷雪を踏みながら、浄衣に法冠、草鞋履きという装束で行われた登山は、まさに難行苦行で、「息絶身こゞえ」ながらの山頂到着となった。

随行日記では、その時間を「申ノ上尅(午後3時半ごろ)」としている。一方、「おくのほそ道」では「頂上に至れば、日没て月顕る」と記し、頂上に着いたところ、折から日が暮れて月が顕れたとしているので、到着時間は日没近くということになる。

これは、芭蕉が月山に登った日の六日月は、おおよそ、昼前に月が出て、日が没するにつれて南の空高くに鮮明となることから、芭蕉は、月山への到着を、次第に「月顕る」情景とからめて叙することを希望し、このため、到着時刻を3時間ばかり繰り下げることにしたものと思われる。

「雲の峰」の句について

 
月山権現を拝す
 


月山神社遠景

月山神社坂下

月山神社

戦前の月山神社

「雲の峰」句碑
 
随行日記に「先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル」とあり、芭蕉一行は、月山山頂に到着すると、まず「御室(おむろ)」に参拝した。「御室」は、現在の月山神社本宮のことで、強風を遮るため積石の塀で囲ってあることからこの称がある。神仏混淆期にあっては月山権現と言い、祭神を天照大神の弟神の月読命、その本地を阿弥陀如来とした。神仏分離後は月山神社とその称を変えたが、「御室」には今も阿弥陀如来の石像が安置されている。

参拝後に向った「角兵衛小ヤ」は、当時山頂に7軒あった小屋の1つで、7軒の内訳は5軒が宿泊用、残りは酒屋と菓子屋だったという。俳誌「層雲」を主宰した荻原井泉水(1884〜1976)は、八合目小屋に泊まった時の様子を「石を積んだ上を、蒲鉾のやうな形に、苫を以て蔽ふたものに過ぎなかった。中には土の上にむしろが一枚づゝ奥深く敷いてあるらしいが、真暗だった」と「奥の細道を尋ねて」に書いている。かなり年数を隔ててはいるが、芭蕉が体験した「笹を鋪、篠を枕として」という仮寝も、これに近い趣だったのだろう。
 

元禄2年(1689年)6月7日(新暦7月23日)

おくのほそ道
日出て雲消れば湯殿に下る。 谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。 惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。
 
曽良随行日記
〇七日 湯殿ヘ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首、コヤ有。不浄汚離、コヽニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦ガケナドシテ御前ニ下ル(御前ヨリスグニ、シメカケ・大日坊へカヽリテ鶴ヶ岡ヘ出ル道有)。是ヨリ奥へ持タル金銀銭持テ不帰。惣而取落モノ取上ル事不成。浄衣・法冠・シメ斗ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊ヨリ弁当持セ、サカ迎セラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。 
△ハラヂヌギカヘ場ヨリ、シヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。 
△堂者坊ニ一宿、三人、一歩。月山、一夜宿、コヤ賃廿文。方々役銭貳百文之内。散銭貳百文之内。彼是、一歩銭不余。

 

 
湯殿山への道
 


山頂から下山

鍛冶小屋跡

牛首

金姥からの道

ニッコウキスゲ

月山は、八幡平や霧ヶ峰と同じアスピーテ(楯状)火山で、全体的に傾斜は緩やかだが、西から南側にかけては結構角度のある斜面となっている。

山頂の小屋で一夜を明かした一行は、三山巡礼の締め括りとなる湯殿山を目指し、西の斜面を下って行った。道は、大小様々な石を寄せたにすぎなく、これが7、800mにわたって真下へと続く。

「おくのほそ道」に書かれた「鍛冶小
屋」の跡地は、頂きから300mほど下ったところにある。小屋の名は、鎌倉時代の刀鍛冶鬼王丸を祖とする名匠「月山」に由来するとされ、「月山」は、月山麓近くの谷地や寒河江を鍛刀の地とし、室町時代に最も繁栄したという。昭和46年、国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された故月山貞一は、この流れを汲み、刀に「綾杉肌」という独特な模様を出す鍛錬法の古術を現代に伝えた。

○平成16年8月の時点では、「鍛冶小屋」の跡地に礎石のみが残り、建物は存在していない。
○羽黒山山頂の出羽三山歴史博物館に、月山銘の太刀が収蔵・展示されている。

鍛冶小屋があったところから1kmほど下れば、湯殿山への道と姥沢小屋に行く道との分岐点「牛首」に至る。ここから真っ直ぐに行く石畳の道は平坦で、爽快なトレッキングを楽しむことができる。各地で記録的な暑さを観測した平成16年の夏も、ここ、月山の高山帯にあっては、ゲレンデが残した雪の塊を融かし兼ねる様相だった。

次の分岐点「金姥」においては、姥ヶ岳の山頂に続く石段をよそに見て、北西方向に折れる。姥ヶ岳の斜面を西廻りに行くこの道が、湯殿山への巡拝道である。千三百年余の永きにわたり連綿と続く巡礼の細き道を、突然流れ込む雲霧に息を呑み、鶯や道端の百花に心を惹かれながら進み行けば、やがて、谷あいの彼方に姿の良い湯殿山(標高1504m)の峰が見えてくる。

恐らくは、この辺りに至るまでの間に、芭蕉は「つぼみ半ばひらける」桜を目に留めた。推定される桜は、中部地方以北の亜高山帯から高山帯に咲くタカネザクラ(ミネザクラ)で、これは新葉とともに5月から7月ごろ、月山においては6月から7月ごろに花をつける。本来は高木だが本文に「三尺ばかり」とあるように、高所においては横に枝を広げ低木状となる。芭蕉は、この遅ざくらとの出会いから、熊野・大峰等で修行した行尊を追懐し、そして、百人一首でつとに知られる次の歌を思い浮かべた。

   大峰にて思ひかけず桜の咲きたるを見て
 もろともにあはれと思へ山ざくら花より外に知る人もなし (金葉和歌集)

 
湯殿山へ下る
 


清め川

装束場

月光坂

水月光

梵字川
 
ほどなくして、月山の霊水を下す「清め川」の小流に到る。手を浸せば痛みを覚えるほどの冷水を咽の奥に通し、身体の火照りを癒す。随行日記にある「不浄汚離、コヽニテ水アビル」は、登山道を横切って流れるこのところである。「清め川」の清水は、志津を流れる石跳川から月山湖に入り、やがては最上川の流れとなって、庄内の地に再来する。

これより更に湯殿への道を進み行くと、前方に山小屋の建つところが見えてくる。ここが、本宮に参る前に痛んだ草鞋を履き替え、衣装を改めた装束場である。かつては、脱ぎ捨てられた草鞋が山のように積まれていたという。取材時(平成16年8月)は営業を閉じている様子だったが、当所の山小屋は、登山者に薬湯を売る謂れより古くから「施薬小屋」と呼ばれている。

装束場から眺める湯殿山の頂きは、相似形をした一回り小さい峰と寄り添って、和みのある山容を呈している。しかし、その一方で、品倉山と相対し深いV字の谷を形成している北の斜面は、大きく傾斜して険阻である。湯殿山のご神体は、羽黒山や月山と同じく山頂にあると思われがちだが、その実、この急斜面を、鉄梯子や鎖を使用して下った谷底に鎮座する。

まず、最初の難所が「金月光(かながっこう)」と呼ばれるところで、鉄梯子の掛けられた急坂が四箇所ある。中でも「月光坂」は最も長く、30mほどの崖道を下る。最終盤になって控えるのが「水月光」の長坂である。その名は、傍らを流れる山水が、雨天の時になると一変し、岩や大小の石で覆われた急坂を滝水となって落下することに由来する。雨のない日も、足場が湿っていて滑りやすく、細心の注意が必要である。

これを過ぎれば、ついに湯殿山の急坂を下り終え、梵字川に到達する。川沿いの道を少し歩いたところに高さ11mの砂防ダムがあり、この先に、芭蕉の「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」を刻む句碑と、曽良の「湯殿山銭ふむ道の泪かな」の句碑がある。そして、その前方に、巡拝道の終点となる本宮参拝口がある。

            
湯殿山神社について
 

湯殿山神社には古来より社殿が設けられず、お湯が湧き出す茶褐色の大岩をご神体としている。月山が、阿弥陀如来を本地として「死後」を象徴するのに対し、湯殿山は、大岩の形象に鑑みて、「再生」、すなわち、再びこの世に産み落とされることの象徴として大日如来を本地としている。

その開祖について、一般には、出羽三山の縁起をもとに、羽黒山、月山と同じく蜂子皇子と語られるが、湯殿山においては、古くから真言宗宗祖・弘法大師空海を開基とする旨が貫かれ、今日に至っている。江戸の昔、羽黒山が、出羽三山を天台宗で統一しようとした天宥に反発し、大いに紛糾したことは有名である。

湯殿山は、出羽三山の奥の院とされ、そのご神体は聖地たる隠し所に鎮座している。また、ご神体を、生命誕生の根底となる事物に照応させている所以からか、現在に至るまで、「語るなかれ、聞くなかれ」の戒律にて他言を禁じている。芭蕉は、これに則って「筆をとゞめて記さず」とし、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の一句を詠み遺すにとどめた。

 
南谷へ戻る
 

これにて三山の巡礼を終えた芭蕉一行は、この日の内に、湯殿への道を月山まで引き返した。山頂へは昼ごろに到着し、食事の後、月山を下っている。四合目に到ると、光明坊の僧(または光明坊という名の僧)が、南谷から弁当を携えて坂迎えに来ていた。「坂迎え」は、「境迎え」とも書き、社寺参詣の旅から戻った者を出迎えて持て成すことを言う。

随行日記によれば、南谷への到着は暮れ方だったという。当日の行程は、月山-湯殿山-月山-羽黒山という過酷なもので、曽良は「甚労ル」の三文字を用い、二日間に及ぶ月山、湯殿山への巡礼が、体力の極限に迫るものであったことを吐露している。
 

元禄2年(1689年)6月8日(新暦7月24日)

おくのほそ道
坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。 
 涼しさやほの三か月の羽黒山
 雲の峯幾つ崩て月の山
 語られぬ湯殿にぬらす袂かな


(注) 短冊に書いたのは8日または9日と推測される。

 
曽良随行日記
八日 朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴。和交院(会覚)御入、申ノ刻ニ至ル。
 

 
休息、のち会覚と会見
 

羽黒山の南谷に戻った翌日は、ゆっくりと休息の時を過ごすが、その内に会覚の別院入りがあり、午後4時ごろまで留まった。会覚は、月山、湯殿山への巡礼について芭蕉主従と縷々(るる)語り合い、そして、月山、湯殿山と歩きつづけた二人の、骨身を削っての旅を労(ねぎら)ったことだろう。

芭蕉は、南谷に滞在中、会覚の求めに応じて、本文に掲ぐ三つの句を短冊に認めているが、それを成したのがこの日、または翌9日と推測される。これらの短冊は、長谷川コレクションとして山形美術館に展示されている。

芭蕉真筆「出羽三山短冊」展示室
 

元禄2年(1689年)6月9日(新暦7月25日)

曽良随行日記
〇九日 天気吉、折々曇。断食、及昼テ、シメアグル。ソウメンヲ進ム。亦、和交院ノ御入テ、飯・名酒等持参。申刻ニ至ル。花ノ句ヲ進テ、俳、終。ソラ発句、四句迄出来ル。
 

 
かの歌仙を満尾す
 

三山参りを終えた翌朝は、断食して潔斎をし、昼にそうめんを食べる習わしがあったが、芭蕉は、一日遅れの9日に、身に付けた木綿注連を納め上げるなど、一連の恒例を踏み、巡礼の旅を締め括っている。

その後、会覚が前日に続いて別院に足を運び、ご飯や銘酒を振る舞って午後4時ごろまで留まった。この日、初折の18句で中断していた歌仙が、会覚の花の句を得てついに満尾するところとなった。また、曽良が、この日までに発句4句を詠み終えたとして「ソラ発句、四句迄出来ル」と、自らのことを記している。この内の三句は「俳諧書留」に見られ、明らかである。

月山や鍛冶が跡とふ雪清水
銭踏て世を忘れけりゆどの道
三ヶ月や雪にしらけし雲峯

(俳諧書留)
 

元禄2年(1689年)6月10日(新暦7月26日)

曽良随行日記
〇十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄円入被迎、又、大杉根迄被送。秡川ニテ手水シテ下ル。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂(黄金堂)迄釣雪送ル。左吉同道。道ヽ小雨ス。ヌルヽニ不及。
 

 
羽黒を立つ
 


本坊宝前院跡

祓川と神橋

呂丸宅跡

黄金堂

羽黒町・手向

6月10日、天候、曇り。8日間の滞在を終えて、この日、羽黒山を下る。旅荷を整えた芭蕉と曽良は、昼前、南谷の別院を離れ、途中、本坊に立ち寄った。会覚により、蕎切や茶、酒にて最後の振る舞いを受け、本坊出立は午後1時半ごろとなった。

円入、釣雪、恐らくは呂丸も同道して、二の坂、一の坂を下り、円入とは、爺杉あたりで別れた。祓川で手水して継子坂を登り、山内を後にする。芭蕉のみ呂丸宅より馬に乗ると、一行は、集落を下り、黄金堂の前で釣雪に別れを告げた。そして、呂丸を道連れに、次なる鶴岡を目指し手向を旅立って行った。

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