手向資料写真と解説(2)

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出羽三山関連写真 羽黒町手向 [2]
正善院、黄金堂、呂丸宅跡
羽黒山正善院 羽黒山正善院。

羽黒山修験道の根本道場。正式には羽黒山荒沢寺正善院という。羽黒山には、明治維新まで、寂光寺や若王寺、華蔵院などの大寺院が数多くあったが、神仏分離令の施行後は十二ヶ寺に減じ、現在は、正善院、荒沢寺、金剛樹院の三ヶ寺を残すのみとなっている
正善院黄金(こがね)堂。

国指定文化財。建久4年(1193年)に源頼朝が、奥州征伐の謝礼に家臣の土肥実平を建築奉行として建立。山頂の大金堂(現在の三神合祭殿。金堂は「本堂」の意)に対する小の金堂、小金(こがね)堂で、本尊の三十三観音が黄金色に輝く謂れから黄金堂と名付けられた。
正善院黄金堂
正善院黄金堂 正善院黄金堂。

かつての黄金堂は、正善院との間の道中央に鳥居が構え、境内に大日堂、弥勒堂、観音堂などの諸堂を配置する一大寺院だった。曽良随行日記6月10日の条では、「左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル」と、黄金堂が「光堂」の名で表記されている。   
呂丸宅への道。

芭蕉一行は、手向の宿坊集落を通行し、午後4時ごろ呂丸(ろがん。俳号。露丸とも)こと近藤左吉の家に到着した。呂丸は、鶴岡の藩士図士家に生まれ、山伏の摺り衣を染める染屋を営んでいた。また、俳諧に長けて当時羽黒俳壇の中核にあり、大石田の高野一栄とも面識があった。
呂丸宅への道
呂丸宅への道 呂丸宅への道。

写真の中央が呂丸宅跡。芭蕉が到着した時、呂丸は羽黒山の本坊へ出向いて留守だった。帰宅後、高野一栄が認めてくれた会覚阿闍梨への紹介状を手渡すと、呂丸は再び本坊へと向った。会覚は、一栄の言葉を聞き入れ、芭蕉と曽良を南谷別院に案内するよう呂丸に申し付けた。
呂丸宅跡。

呂丸は、南谷滞在中、芭蕉が伝授した俳諧の教えを「聞書七日草」に著し、また、芭蕉の誘いに応じ、元禄5年(1692年)深川の芭蕉庵を訪ねた折、芭蕉から「三日月日記」の稿本を貰い受けるなど、芭蕉との関わりを密にしたが、引き続き、美濃、伊勢と関西を旅した途次の元禄6年2月、京都で病に倒れ、客死した。
呂丸宅跡


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第24集 芭蕉と出羽三山
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