羽黒山資料写真と解説(4)

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出羽三山関連写真 羽黒山 [4]
十五童坂、三神合祭殿、鏡池、蜂子神社、蜂子皇子の墓、天宥社、鐘楼堂
十五童坂と朱鳥居 十五童坂と朱鳥居。

朱鳥居の建つこの位置で2446段の石階が尽き、羽黒山の頂上に至る。鳥居はもともと青銅製だったが、戦争で供出されたため現在の鳥居が再建された。この鳥居を潜ると、左側に厳島神社と蜂子神社が並んで建ち、その右側に三神合祭殿が構えている。

鳥居を潜った先の光景    
三神合祭殿。

国指定重要文化財。羽黒修験の根本道場である本建造物は、出羽(いでは)神社の社殿だが、これに月山神と湯殿山神を合わせ祭っていることから「三神合祭殿」の称がある。現在、この三神を総じて「出羽三山神社」と呼んでいるのに対し、神仏分離前は、それぞれを羽黒権現、月山権現、湯殿権現と称したことから総じては「羽黒三所権現」で、今日の「三神合祭殿」にあたる建造物は「羽黒本社」と称した。
三神合祭殿
三神合祭殿の屋根葺き 三神合祭殿の屋根葺き。

屋根の高さは約28m。葦の厚さは約2m、隅で約3m。屋根全体の広さは約600坪に及ぶ。屋根の補修は、合掌造りの東側、西側など4つに分けた屋根面を、1年に1面ずつ行い、4年のサイクルで屋根全体が補修される。補修は表面のみが行われるので、内部の葦は創建時(文政元年竣工)のままとなっている。
鏡池(御手洗池)。

合祭殿前にある周囲100mの「鏡池」は、神霊が宿る池、延いては神霊そのものとして崇められ、羽黒信仰の中心を成した。神仏習合にあっては羽黒権現の「御手洗池」であったことから、古来、この称がある。池に橋が掛けられた大正3年、および、大正末期に橋を取り外した後の昭和3年に橋脚を撤去した際、信仰のため池に納められた鏡が多数出土したことから、現在は一般に「鏡池」と呼ばれる。
 

池に掛けられていた橋
鏡池(御手洗池)
蜂子神社 蜂子神社。

祭神は、出羽三山の開祖とされる蜂子皇子。伝説によれば、皇子は、京から海路北へ渡り、推古元年(593年)出羽国由良の八乙女の海岸に上陸。三本足の霊烏の導きを得て、まず羽黒山の阿久谷に入って難行を積み羽黒大神の示現を受けたと伝えられ、その後、引き続き、月山、湯殿山に登り、これを開山したと伝えられる。
蜂子皇子の墓。

芭蕉像の近くにある蜂子皇子の墓。現在、宮内庁の管理するところとなっている。

蜂子皇子の墓
天宥社 天宥社。

祭神は、羽黒山50代別当執行天宥。南谷の造営や羽黒山の参道整備などの業績により出羽三山の中興とされる。天宥が、三山の再興を目指し、当時真言の宗風にあった三山を徳川氏が帰依した天台宗で統一しようと画したことはつとに知られる。天宥は、寛文8年(1668年)、羽黒衆徒との対立で訴訟に敗れ、伊豆新島に流された。社殿前の石灯籠は、天宥の墓がある新島から奉献されたもの。
鐘楼堂と建治の大鐘。

合祭殿の近くに、元和4年(1618年)、最上家信が再建した鐘楼堂がある。これに吊るされている鐘は、東大寺、金剛峰寺に次ぐ、日本で三番目に大きい梵鐘で、北条時宗が、蒙古軍の退散を羽黒の霊威と称えて寄進したと伝えられるもの。国指定重要文化財。「建治元年(1275年)乙亥八月二十七日」の銘がある。
鐘楼堂と建治の大鐘


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第24集 芭蕉と出羽三山
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