清川から湯殿山までの旅路
おくのほそ道文学館収蔵

庄内町清川→ 藤島町添川→ 羽黒町手向→ 羽黒山南谷別院跡→ 月山→ 湯殿山

[1] 清川から手向の交差点まで
(1)庄内町清川 (2)清川関所跡 (3)旧清川街道 (4)旧清川街道
(1)山裾を流れる最上川と立谷沢川との合流点。清川関所跡の近く。 (2)芭蕉上陸の地。清川小学校の裏庭。 (3)清川小学校の校門前で撮影。 (4)旧道の右を国道47号線が並行して走る。
清川関所跡。

跡地に芭蕉像や「芭蕉上陸之地」の石碑、「五月雨を」句碑などが建つ。

(5)旧清川街道 (6)国道47号と合流 (7)国道47号 (8)庄内町狩川
(5)旧道の左に見える線路は陸羽西線。その左を北楯大堰が流れる。 (6)旧道はこの坂上で国道47号線と合流 (7)分岐点から左へ折れて狩川へ。 (8)狩川の交差点。これを左に曲がって、羽黒立川線(9)に入る。
(9)庄内町狩川 (10)庄内町添津 (11)庄内町三ヶ沢 (12)庄内町三ヶ沢
(9)上の(8)を左へ曲がったところ。 (10)この右に医療法人「あかね」がある。 (11)ここで左へ大きく曲がる。 (12)この道を真っ直ぐ行った後、右へカーブし、山裾を南へと進む。
(13)藤島町添川 (14)藤島町添川 (15)添川赤坂地区 (16)羽黒町手向
(13)藤島町に入った後、5、600m先で右へカーブ。左の脇道を行くと、700mほど先に千数百年の歴史を刻む湯の澤温泉「地蔵の湯」がある。 (14)添川に入って間もなくすると木立の風景に一転する。 (15)羽黒町に入るやや手前に、四代続く手打ちそばの店「赤坂」がある。店の前に芭蕉の旅に触れる説明板も。 (16)左の道から手向の交差点に到着。この位置から、羽黒と鶴岡を結ぶ旧手向街道を奥に進んで羽黒山を目指す。
[2] 羽黒山の登り口まで
(17)手向の家並み (18)黄金堂前 (19)呂丸宅跡近く (20)羽黒山登り口
(17)宿坊が点在する手向の家並み。 (18)(17)から初めてカーブする地点の右側に正善院、左側に黄金堂がある。 (19)右の脇道に入ったところに呂丸宅跡(1)(2)がある。 (20)右へ大きくカーブするところの左角が登り口。ここから約200m先に「いでは文化記念館」がある。
正善院黄金(こがね)堂。

国指定文化財。建久4年(1193年)に源頼朝が、奥州征伐の謝礼に家臣の土肥実平を建築奉行として建立。山頂の大金堂(現在の三神合祭殿。金堂は「本堂」の意)に対する小の金堂、小金(こがね)堂で、本尊の三十三観音が黄金色に輝く謂れから黄金堂と名付けられた。
[3] 南谷別院への分岐点まで
(21)随神門 (22)継子坂 (23)須賀の神橋 (24)須賀の滝
(21)芭蕉が訪れた10年後の元禄12年(1699年)に建てられた随神門。 (22)祓川の谷底に向かうこの継子坂から2446段の石段が始まる。 (23)祓川に架かる須賀の神橋。 (24)須賀の滝は当時「不動の滝」の名称。
(25)一の坂起点 (26)一の坂 (27)石段の彫り物 (28)道標
(25)爺杉五重塔を左に見て、一の坂の起点に至る。 (27)石段にこうした彫り物がいくつか見られる。 (28)「七丁」(約700m)を刻む道標。
(29)二の坂起点 (30)二の坂 (31)二の坂茶屋 (32)道標
(29)「油こぼしの坂」とも呼ばれる急坂二の坂の起点に至る。 (30)登りきったところに(31)の茶屋がある。 (32)茶屋からやや登ったところにある道標。「御坂中央」を刻む。
羽黒山参道・二の坂。

羽黒山の参道に敷かれている石段は、総計2446段と言われ、頂上付近の三の坂まで続いている。この普請工事は、羽黒山五十代別当執行の天宥が慶安元年(1648年)から始めたもので、在職中に築き上げた道の長さは、全長1.7kmのうち約1.2kmに及ぶ。
(33)三日月塚付近 (34)本坊跡 (35)三の坂下遠望 (36)三の坂下
(33)この右手が三日月塚(芭蕉塚)(1) (2)。(32)の坂を登り切ったあたりから(36)の三の坂下まで平坦な参道が続く。 (34)この付近が本坊宝前院若王寺跡(1) (2)(35)参道が木に隠れる手前が(36)の地点。 (36)南谷別院に通じる道との分岐点。
[4] 南谷別院跡、羽黒山山頂まで
(37)南谷への道 (38)南谷への道 (39)南谷への道 (40)南谷への道
(37)-(40) (36)の地点から別院跡までの道のりは約500m。出羽三山歴史回廊調査・整備実行委員会およびボランティアの人々の努力により、全コースが歩きやすく整備され、往時の佇まいに心を馳せながら、ゆったりと散策することができる。
南谷の別院跡。

元禄2年(1689年)6月3日(新暦7月19日)、芭蕉は、呂丸の案内にて日の落ちた参道を三の坂下まで行き、(36)の分岐点から南谷の別院へ向った。南谷は、これより20余年前、第50代別当執行の天宥が5年の歳月をかけて築造したもので、自らの別当寺紫苑寺の大伽藍は、人目を驚かすほどに壮大だったという。しかし、芭蕉が訪ねた頃、紫苑寺の建物は既に焼失して無く、替わりに山頂から玄陽院を移築して、本坊宝前院の別院としていた。玄陽院は、宿泊施設としての機能も備え、芭蕉は当所に6泊して静養のひとときを過ごした。
(41)三の坂起点 (42)三の坂 (43)三の坂 (44)斎館前
(41)南谷から(36)の地点に戻る。 (44)ここから左に入ったところに、羽黒山の参籠所「斎館」がある。
(45)山頂へ (46)三神合祭殿 (47)山頂境内 (48)山頂の旧道
(45)十五童坂。鳥居をくぐったところが山頂。こちらが鳥居の先の光景で、中央の建物が(46)の合祭殿。 (46)出羽(いでは)神社の社殿に月山神と湯殿山神を合わせ祭っていることから「三神合祭殿」と呼ばれる。 (47)鳥居の向こうに合祭殿がある。右に見えるのは手水舎。 (48)みやげ物屋の前を通る旧登山道。この先の旧道の様子はこちらから。
[5] 月山八合目まで
(49)吹越神社付近 (50)荒沢寺付近 (51)旧登山道 (52)月山半合目
(49)吹越神社付近を通る旧登山道。 (50)坂を下りて荒沢寺(手前)に向かう。 (51)荒沢寺の裏を通る旧登山道。 (52)月山半合目の傘骨(からかさぼね)。
(53)三合目付近 (54)七・八合目間 (55)八合目 (56)八合目登山道
(53)月山三合目(神子石)付近の旧登山道。 (55)月山八合目。標高約1400mの地点。右に見えるのはレストハウス。 (56)レストハウスの脇から弥陀ヶ原へ。
(57)弥陀ヶ原 (58)月山中之宮へ (59)月山中之宮 (60)登山道
(57)八合目の弥陀ヶ原。高山植物が群生する湿地帯。 (58)月山中之宮への道。道の両側に池塘が点在する。 (59)芭蕉一行は中之宮で昼食をとった後、境内から東の斜面を下って東補陀落の地に参詣し、のち中宮寺に戻り、改めて頂上を目指した。
弥陀ヶ原の池塘(ちとう)。

高山植物の群生地として知られる弥陀ヶ原は御田ヶ原ともいい、標高1400m〜1500mのところに位置する。「弥陀」は、月山権現の本地が阿弥陀如来であることに因み、「御田」の称は、南北1km、東西0.6kmの湿原帯に「いろは四十八沼」と呼ばれる池塘(ちとう)があり、これに稲穂に似た実を付けるホンモンジスゲが生えることに由来する。
[6] 月山九合目まで
(61)無量坂 (62)低潅木広野原 (63)河原 (64)雲海
(62)チシマザサなどの低潅木を敷き詰める広野原。その向うに、九合目付近から隆起する一の岳の頂きが見える。こちらは九合目を過ぎたところから見た一の岳。 (63)九合目に向かう途中の「河原」地点。川の景観と似ていることからその名がある。 (64)登山道から東の方角を撮影。
(65)畳石 (66)月山九合目 (67)仏生池 (68)九合目の小屋
(66)仏生池と山小屋がある月山九合目。海抜1,720mの地点。背後(山頂側)の山は「オモワシ山」。月山の山頂かと思わせることからその名がある。 (67)水神八大竜王や三十六童子の伝説を秘めた仏生池。 (68)九合目の仏生池小屋。食事ができるほか、50人収容の宿泊施設も備えている。
月山九合目の碑。

仏生池は、周囲20mほどの小池で、クロサンショウウオの生息地として知られる。周辺は高山植物の宝庫で、トウゲブキやハクサンフウロなどが群生している。八合目の弥陀ヶ原からここまで、高低差300mを登り詰めるのに約1時間20分、山頂まで更に同程度の時間が必要となる。
[7] 月山山頂まで
(69)行者返し (70)モックラ坂 (71)木歩道 (72)大峰
(69)昔、役行者が山頂を目指したときに、蜂子皇子に仕える除魔童子と金剛童子が現れて、修行が未熟であるからと押し戻したところと伝えられる。 (70)「行者返し」の先に控える、緩やかな傾斜の坂道。 (72)月山の峰で「大峰」と呼ばれるところ。右に見えるのが月山の頂き。
(73)月山山頂 (74)月山神社 (75)神社からの景 (76)日の出
(73)ピラミッド型に隆起する月山の絶頂。ここに月山神社が鎮座する。 (74)月山神社。祭神は天照大神の弟神の月読命。「御室」に阿弥陀如来の石像を安置する。 (75)月山神社から北側を撮影。中央の建物は、100人収容の宿泊施設を備える山頂小屋。 (76)月山山頂から見た日の出。
月山山頂の芭蕉句碑。

山頂平坦地の南端に建つ「雲の峯幾つ崩て月の山」の句碑。芭蕉の月山登拝270年を記念して昭和33年(1958年)7月に建立。山形美術博物館所蔵の短冊をもとに真蹟を銅板に刻し、石にはめ込んだもの。建立から半世紀を経た今、厳しい自然の営みによって最上部の尖がりが破られ、平らになってしまった。
[8] 湯殿山まで
(77)月山を下る (78)鍛冶小屋跡 (79)牛首 (80)金姥
(77)左下の地点から月山を下る。中央にややかすれて見えるのが湯殿山。これを下った谷底に湯殿山神社本宮がある。月山山頂から本宮まで約8km。こちらは、行程図を加えた写真。 (78)「おくのほそ道」に書かれた「鍛冶小屋」の跡。頂きから300mほど下ったところにある。小屋の名は、鎌倉時代の刀鍛冶鬼王丸を祖とする名匠「月山」に由来するという。こちらは、跡地から見た山頂側の景。 (79)鍛冶小屋跡から1kmほど下ったところ。姥沢小屋への道と湯殿山への道(右)との分岐点。 (80)姥ヶ岳の山頂に向かう道と湯殿山への道(右)との分岐点。
(81)金姥からの道 (82)谷へ下る (83)清め川 (84)装束場
(82)姥ヶ岳の西の斜面に回り、谷へ下る。 (83)(82)の地点から、かなり距離を経て「清め川」に至る。随行日記に「不浄汚離、コヽニテ水アビル」とある。石跳川の源流部にあたる。 (84)中央の山が湯殿山。装束場は、本宮に参る前に、痛んだ草鞋を履き替え、衣装を改めたところ。右端の小屋は、登山者に薬湯を売る由来で古くから「施薬小屋」と呼ばれている。
(85)湯殿山を下る (86)金月光 (87)金月光 (88)金月光を経て
(85)写真は(84)の装束場のところ。ここを起点に湯殿山を下る。 (86)鉄梯子が掛かる「金月光」四箇所の内の1つ。 (87)金月光で最も長い「月光坂」。 (88)右上の白く見えるあたりに湯殿山の本宮がある。
(89)水月光 (90)水月光を経て (91)梵字川添いを (92)本宮参拝口
(89)「水月光」の長坂。その名は、傍らを流れる山水が、雨天の時になると一変し、岩や大小の石で覆われた急坂を滝水となって落下することに由来する。 (91)まもなく参拝口の手前に、芭蕉と曽良の句碑が見えてくる。 (92)湯殿山本宮の参拝口に至る。
芭蕉と曽良の句碑。
芭蕉の「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」を刻む句碑は、昭和30年(1955年)10月に建立。曽良の「湯殿山銭ふむ道の泪かな」の句碑は、昭和39年(1964年)10月に建立。
曽良句碑 芭蕉句碑

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